イタリア代表を救った感覚派の点取り屋 “黄金の子”ロッシ、1982年W杯「覚醒の記憶」
【識者コラム】マラドーナに続きサッカー史に残る英雄が他界、ロッシは1982年W杯で伝説になった
ディエゴ・マラドーナの訃報に続き、パオロ・ロッシも64歳で他界してしまった。1982年スペイン・ワールドカップ(W杯)でのイタリア優勝のヒーローで得点王も獲得、その年のバロンドールも受賞した。
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ロッシといえば、そのスペインW杯ブラジル戦でのハットトリックだろう。
4年前、当時21歳のパオロ・ロッシは前途洋々に見えた。ヴィチェンツァをセリエAへ昇格させる原動力となり、イタリア代表に選出されるとロベルト・ベッテガと2トップを組んで1978年アルゼンチンW杯で活躍、世界は新たなスターを発見した。大会直前まではフランチェスコ・グラッツィアーニがレギュラーだったので、ロッシは世界的には無名の若手にすぎなかったのだが、素早い動きとクレバーなポジションセンス、得点力でたちまち注目の的となったわけだ。
1980年、ヴィチェンツアに八百長試合の疑惑が浮上。ロッシもチームメートとともに3年間の出場停止処分となってしまう。ロッシは終生この疑惑については否定していたが、短縮された出場停止があけたのはスペインW杯直前だった。エンツォ・ベアルツォット監督はそれでもロッシをメンバーに加え、開幕戦から先発で起用する。
ところが試合勘のないロッシは不調が続き、イタリアは1次リーグ3試合をすべて引き分け。勝ち点3でカメルーンと並んだが、辛くも1ゴールの差で2次リーグへ進出。この時点で、ロッシとイタリア代表への批判は最高潮に達していた。
イタリアが蘇ったのが、2次リーグ初戦のアルゼンチン戦だ。クラウディオ・ジェンティーレがマラドーナを徹底マークで抑え込み、マルコ・タルデッリとアントニオ・カブリーニのゴールで2-1と初勝利をあげている。だが、ロッシはまたも無得点に終わり、本人もこの時点で「自分のワールドカップは終わった」と思ったという。
ブラジルとの最終戦は事実上の準々決勝だった。イタリアとブラジルに連敗したアルゼンチンはすでに脱落している。ただ、イタリアはこの試合で勝たなければならないのに対して、ブラジルはドローでも準決勝へ行ける。守備は固いが得点力を欠くイタリアにはかなり厳しい条件だ。さらにこの大会のブラジルは「黄金の4人」(ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ)を擁する優勝候補筆頭で、W杯史上でも屈指の強力なチームだった。
西部謙司
にしべ・けんじ/1962年生まれ、東京都出身。サッカー専門誌の編集記者を経て、2002年からフリーランスとして活動。1995年から98年までパリに在住し、欧州サッカーを中心に取材した。戦術分析に定評があり、『サッカー日本代表戦術アナライズ』(カンゼン)、『戦術リストランテ』(ソル・メディア)など著書多数。またJリーグでは長年ジェフユナイテッド千葉を追っており、ウェブマガジン『犬の生活SUPER』(https://www.targma.jp/nishibemag/)を配信している。