「夢を2人でもう一度…」 元日本代表GK小島伸幸、54歳でJクラブコーチ初挑戦の理由

ザスパ草津時代の奥野監督(前列右端)と小島コーチ(後列左から2人目)【写真:サポーター提供】
ザスパ草津時代の奥野監督(前列右端)と小島コーチ(後列左から2人目)【写真:サポーター提供】

“負けられない戦い”を乗り越え3年でJリーグへ 「奇跡に近いことを成し遂げた」

 小島にとって、群馬は特別なクラブだ。2001年末、当時36歳だった小島は福岡を契約満了となり、行き場を探していた。多くのJクラブに打診したがオファーは届かず、引退の瀬戸際に立っていた。

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 そんな時に届いたのが、生まれ故郷・群馬において動き出したJリーグ昇格への挑戦だった。群馬県1部リーグのザスパ草津でJ昇格を目指す、夢のようなプロジェクト。総監督は、元平塚監督の植木繁晴、監督兼選手には奥野の名前があった。

「福岡を契約満了になってから、自分はまだやれると思っていたが、どこからもオファーがなかった。もう一度、Jリーグへ戻ってプレーしたいという反骨心があったなかで、自分たちの力でJ昇格を目指すクラブに魅力を感じた。ただ、それは簡単な作業ではなかった」

 当時、Jリーグへのピラミッドは確立されていたものの、県リーグからJリーグへ昇格を果たした前例はなかった。さらに、当時のザスパ草津の活動拠点は、草津温泉街。始動直後の練習は、雪舞うスキー場の駐車場でのランニング。あまりの過酷さに、若手選手ですら逃げ出した。そんな状況下、小島の負けられない戦いが始まった。

 思い出されるのは最初の関門となった関東リーグ昇格戦。試合は1-1でPK戦に突入したが、小島の威圧感によって相手キッカーが次々と外してPK戦勝利(PK3-1)。負ければチーム解散という重圧のなか、Jリーグへの最初の階段を上がった。

 百戦錬磨のGK小島は「あのPK戦のピッチは、PKスポットが固く、少し浮き上がっていた。ウチのキッカーには『高めを狙うとボールが浮くから、低めを狙っていけ』とアドバイスを送っていた。相手のキックはバーの上を越えて、ウチの選手は低めに決めた。それが勝敗を分けた」と明かす。

 チームは2003年末にJFL昇格をかけた地域リーグ決勝大会(現・全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)へ出場。そこでも小島がビッグセーブを連発し、JFL昇格を決めた。奥野はJFL昇格を決めた後に、チームを離れて古巣鹿島アントラーズのコーチに就任したが、小島は2004年のJFLでもザスパ草津でプレーし、同年末のJ2昇格決定の原動力となった。クラブは、県リーグから最短3年でJ2昇格を果たした。

「どこかで一度でも負けたら、チームは消滅していたと思う。ヒヤヒヤした試合が続くなかで、GKとしては一度もミスができないので、神経を張り巡らせてプレーしていた。今でこそJリーグへの道ができ上がっているが、当時は明確な道がないなかで、ゴールの見えない霧の中を進んでいる感覚だった。改めて振り返ると、奇跡に近いことを成し遂げたのだと思う。それは自分を含めて、ハングリーな気持ちがあったからだと思う」

 小島は2005年にJ2でプレーし、現役引退を決めた。

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