天才バッジョを次々と襲った悪夢と逆風 失意を希望に変え続けたファンタジスタの輝き

【サッカー英雄列伝|No.1】ロベルト・バッジョ(後編)――94年W杯後に始まったデル・ピエロとの物語

 失意の敗戦を喫した1994年、灼熱のアメリカ・ワールドカップ(W杯)を終えた後の元イタリア代表FWロベルト・バッジョのキャリアには、若きファンタジスタが交錯した。当時所属していたユベントスに現れた新たなファンタジスタ、FWアレッサンドロ・デル・ピエロとの関係性だ。

【前編】神に愛された“悲運の天才”バッジョ 若き日の苦闘と灼熱のアメリカで散った夢

 デル・ピエロとバッジョの間に悪感情があったことは全く伝わっていないが、クラブ幹部の考えは別だった。結局、95年にユベントスはデル・ピエロを選び、バッジョはインテルへの移籍話を進めるユベントスに反発するのかのようにACミランへと移籍した。

 だが、この判断は成功とは言えなかった。ミランではファビオ・カペッロ監督やアメリカW杯で因縁のアリゴ・サッキ監督から重用されず、バッジョは危機感を募らせる。ユベントスでデル・ピエロが華々しく活躍するなかで、下降線に入った選手と見られるようになった。しかし、97年夏にイタリア中部の中堅クラブ、ボローニャに移籍して攻撃の全権を担うと30試合22ゴールと復活。プレーオフにまでもつれ込んだW杯予選には出場しなかったにもかかわらず、翌98年フランス大会の招集メンバー入りを果たしたのだ。

 そしてこのW杯では、バッジョとデル・ピエロの起用法がイタリア全体を巻き込む論争に発展したのだった。デル・ピエロは大会前の最後の公式戦になった、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)決勝のレアル・マドリード戦で太ももを痛めていた。一方のバッジョは前述の通り、絶好調で大会に入った。果たしてエースは「10番」のデル・ピエロか、「18番」のバッジョか。結局、当時のチェーザレ・マルディーニ監督は「ローテーション起用」という、イタリアにありがちな政治的起用を決断した。

 

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