神に愛された“悲運の天才”バッジョ 若き日の苦闘と灼熱のアメリカで散った夢

【サッカー英雄列伝|No.1】ロベルト・バッジョ(前編)――90年W杯から本格化した“ファンタジスタ伝説”

「神に愛されたサッカープレーヤーだった。その膝以外は」

【後編】天才バッジョを次々と襲った悪夢と逆風 失意を希望に変え続けたファンタジスタの輝き

 イタリアには、そんな言葉で表現される“ファンタジスタ”がいた。2004年に現役を引退した、元イタリア代表FWロベルト・バッジョだ。

 イタリアの地方都市ヴィチェンツァで育ち、地元クラブで頭角を現したバッジョは1985年5月、名門フィオレンティーナへの移籍を勝ち取った。しかし、その18歳の若者は契約が成立した2日後に右膝十字靭帯断裂の重傷を負ってしまう。後に自伝で「これでフィオレンティーナ行きの話は流れてしまう」と暗澹たる思いに駆られたことを明かしているが、フィオレンティーナは契約を破棄することなく復帰を待った。しかし、翌86年には右膝半月板損傷が明らかになり、再度の手術とリハビリの時間が流れた。結局、この膝の負傷とは引退するその日まで、ずっと付き合い続けていくことになる。

 復活したバッジョは88-89シーズンから2年連続で二桁ゴールも挙げ、地元開催のイタリア・ワールドカップ(W杯)に出場。グループリーグ最終戦のチェコスロバキア(当時)戦から準々決勝のアイルランド戦までスタメン出場した。バッジョは持ち前の卓越したボールコントロールと切れ味鋭いドリブルでW杯の舞台で鮮やかに舞う。特に、チェコスロバキア戦の中盤からドリブル突破して決めたゴールは、大会ベストゴールの呼び声も高かった。

 しかし、準決勝のアルゼンチン戦では不可解なベンチスタートになり、PK戦の末に敗退。アゼリオ・ビチーニ監督には大きな批判が浴びせられた。3位決定戦のイングランド戦でフル出場したバッジョは、1ゴールした上にPKも獲得。そのPKを得点王のかかっていたサルバトーレ・スキラッチ(後にジュビロ磐田でプレー)に譲り、3位で最初の大舞台を終えた。

 

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