セレソンから始まった「ロナウジーニョ伝説」 世代別代表で輝き日韓W杯の“3R”で覚醒

【サッカー英雄列伝|No.3】ロナウジーニョ(前編)――10代でA代表に名を連ねた“小さなロナウド”

【サッカー英雄列伝|No.3】ロナウジーニョ(後編)――低迷期の名門を復活させた天賦の才

 セレソンの“ナンバー10”はブラジルに生まれる数多の才能の中で、最も信頼されるアタッカーのみに許される栄誉だ。古くはペレ、ロベルト・リベリーノ、ジーコ、リバウドらが背負い、現在はネイマール(現パリ・サンジェルマン/PSG)がその重責を担う。この系譜の中で、誰よりも「フットボールの楽しさ」を体現した男と言えば、ロナウジーニョだろう。

 2018年1月16日、希代のクラッキは38歳でスパイクを脱いだが、そのサッカー人生は波乱万丈あれど輝きに満ちていた。

 世界が彼を初めて知ったのは、今から21年前のU-17世界選手権(現U-17ワールドカップ/W杯)だった。中心メンバーとしてチームを優勝に導くと、19歳にして99年コパ・アメリカに挑むA代表メンバーに選出されたのだ。

 当時はFWロナウドがいたこともあり、与えられたのは「小さなロナウド」という愛称――すなわちロナウジーニョが「ロナウジーニョ」になった瞬間だった。同大会でA代表初ゴール、その翌月に行われたコンフェデレーションズカップ準決勝でハットトリックを達成し、鮮烈な印象を残した。

 日本での知名度を高めたのは、2000年シドニー五輪だろう。MF中田英寿、MF稲本潤一(現・北海道コンサドーレ札幌)、MF中村俊輔(現・ジュビロ磐田)、DF中澤佑二(現・横浜F・マリノス)らを擁し“史上最強”と呼ばれた日本と、ブラジルは同組に入った。そのブラジルのエースはロナウジーニョが務めたが、当時の背番号は「7」。グループリーグ第3戦で対戦し、1-0でブラジルに軍配が上がったものの、最終的にメダルには届かずオーストラリアを去った。

 

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