千葉の水野晃樹が恩師・オシム氏に渡したい“手土産”

たどり着いた場所

「復活しなきゃねぇ…いや、復活するしかないでしょ」
 かつてジェフユナイテッド千葉の右サイドを湧かせた男は、自分自身に言い聞かせるようにそうつぶやいた。
 8年前、水野晃樹は世界へと飛び立った。だが、出番には恵まれず、帰国するも負傷に悩まされる日々が続いた。次がラストチャンス。その決意で足を向けたのは、かつて「さよなら」を告げた千葉だった。
 「ただいま」と言って戻ってきた古巣への帰還に表情は晴れやかだった。別れの日からは短くない月日が経っていた。
「当時のチームメートが育成のコーチになっていたり、変わってしま った部分は多い。ですけど、洗濯のおばちゃんはずっと一緒(笑)。めっちゃ懐かしいと思って安心する」
 しかし、ここにたどり着くまでには、さまざまな挫折や苦悩があった。2008年1月にスコットランドのセルティックへと移籍するも、10年6月に帰国。12シーズン限りで柏レイソルとの契約が切れると、ヴァンフォーレ甲府へと活躍の場を移した。しかし、甲府でも最終的に待ち構えていたのは契約満了という現実。
「不安はもちろんあった。ただそれ以上にチームに貢献できなかった悔しさを強く感じていた。柏は加入直後に前十字靱帯(じんたい)を切って、J2にいる間は試合に出られなかった。J1に上がった時も途中交代がほとんど。そういった意味ではなかなかチームに貢献できなかった。甲府 に入った時も、調子が良くてもまたけがをしてしまう。その繰り返しで、もうちょっと力になりたかったなという気持ちが強い。独り身ではないので、家族にも心配をかけたし、いろいろなことを考えました」
 その中で手を差し伸べてくれたのが、プロデビューを果たした千葉だった。高校卒業後に加入すると、飛ぶ鳥を落とす勢いでJリーグに旋風を巻き起こし、21歳にして日本代表にまで上り詰めた。その大躍進の陰には、当時の千葉を率いていたイビチャ・オシム監督の存在があった。サッカー選手として最高のステージに立つことができたのも、恩師の存在なくしては語ることができない。

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