W杯制覇から15年…背負った「女子サッカーの存続」 不動の左SBが明かす“現在への思い”

突然のコンバート なでしこジャパンに「生き残るために必死で」
元なでしこジャパン(日本女子代表)の鮫島彩さんは、2年前の引退後から普及活動や解説者などの活動を続けている。20歳で代表入りし、24歳で掴んだW杯世界一。なでしこジャパンにまつわる、知られざるエピソードを独占インタビューで聞いた。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・砂坂美紀/全4回の2回目)
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鮫島さんが初めて、なでしこジャパンのユニフォームに袖を通したのは2008年3月の20歳のときだった。チームを率いていたのは、前年12月に就任したばかりの佐々木則夫監督(現・日本サッカー協会女子委員長)。北京五輪のメンバーには不選出となったが、五輪で4位という当時最高の結果を残した先輩たちと過ごした時間は貴重なものとなった。
「次は世界の頂点を目指す」と帰国後に公言する指揮官となでしこの選手たち。その背中を鮫島さんも追った。北京五輪後、佐々木監督はサイドアタッカーだった彼女のスピードとドリブル、スタミナに加えて強く正確なキック力を持つ才能を見込んで、左サイドバックにコンバートした。
「最初は『本当にごめんなさい』という感じでした。サイドバックというものがわからなすぎて。サイドハーフをやっていたので、流れの中で入れ替わる時などもあったのですが、守備の仕方が全くわかっていなくて」
佐々木監督は細かい戦術を落とし込んで、なでしこジャパンを強化してきた。世界と戦う上で必要な守備コンセプトを体現するのにも苦心した。
「(当時のなでしこジャパンは)世界の強豪と戦う上での対応の仕方やフィジカルが強い相手に対しての守備など、守り方がしっかり決まっていました。様々な要素が必要で、自分はまだそれを備えていなかったから、生き残るために必死でやっていました」
慣れないポジションで活躍するために、小学生時代に同じチームでプレーしていたFW安藤梢(三菱重工浦和レッズレディース)らにアドバイスを求めていたという。「サイドは違うけど、同じポジションをやっていた(安藤)梢ちゃんや近賀(ゆかり)さんに、よく相談していました」と、チーム全体で向上していく雰囲気があり、技術をさらに磨くことができた。
「女子サッカーの存続」のために戦う
2011年、ドイツ女子W杯でなでしこジャパンは世界一に輝いた。鮫島さんは不動のサイドバックとして全6試合にフル出場。頂点に立てた要因の一つとして挙げたのは、当時の彼女たちが背負っていた「女子サッカーの存続」という、ある種の悲壮感に近い使命感だった。
「先輩たちがずっと抱えていた『女子サッカーに日の目を浴びさせたい』という想いを、私たち若手も肌で感じていました。その覚悟が、真剣さが、プレーに出ていました」
1990年代半ばまでは、世界最高峰のリーグが日本に存在していた。世界のスター選手が集い、出場給や勝利給がもらえるチームが複数存在するL・リーグ(現・なでしこリーグ/日本女子サッカーリーグ)があった。2000年のシドニー五輪出場権を日本女子代表が逃したのと期を同じくするように、バブル崩壊後に日本経済が停滞すると次々とチームが消滅していった。
練習場の確保もままならず、働きながらボールを蹴る先輩たちの背中を見てきた世代だ。2008年に多くの代表選手が所属していたTASAKIペルーレFCが休部を発表していたことからも、いつどのチームがどうなってもおかしくないと危機感を感じる状況だった。
「そういった状況ということもあって、『女子サッカーの環境がもっと良くなるために』『少女たちが夢を持てるような環境にするために』と。そのために結果を出すのが一番重要。『メディアにも取り上げてもらえる機会が増えるし』と思っていました」
W杯で世界一に 「日本の皆さんからの声も、すごく届いていました」
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。強豪国が集うアルガルベ杯で3位の好成績を残して帰国し、成田空港から、所属する東京電力女子サッカー部マリーゼのキャンプ地である宮崎へ向かっていたときだった。
マリーゼは休部となり、W杯を目前に控えていた鮫島さんはアメリカのプロリーグWPSのボストン・ブレイカーズに急遽移籍した。サッカーを続けて良いのだろうか……そう悩んだこともあった。仲間や友人、サポーターの後押しを受けて海を渡った。
そうして迎えたW杯。なでしこジャパンはさらに一体感を増していた。
「復興に励む日本の皆さんからの声も、(W杯開催地のドイツまで)すごく届いていました。被災地の方たちへの想いと、日本の女子サッカー界に対する使命感のようなものがあって、チームの一体感を増すのに大きな影響があったと思います」
日本のために、女子サッカーの未来のために掴んだW杯の世界一だった。当時、眠い目をこすりながら試合を見ていた少女たちが、今のなでしこジャパンの中心にいる。

今のなでしこジャパンが“最大限”まで力を引き出せたら「本当にすごいことになる」
2011年のW杯優勝から15年近くが経とうとしている。日本女子サッカーが「世界の頂点」という景色を知ったあの日から、時代は大きく動いた。欧州勢の台頭、各国リーグのプロ化、そして戦術の緻密化。かつて左サイドを疾走し、世界一の立役者の一人となった鮫島さんの目には、現在のなでしこジャパンはどう映っているのだろうか。
「よく『あの頃のなでしこと比べてみて』と聞かれることがありますが、私はそもそも比べる必要がないと思っています」と切り出す。
「今の選手たちは、海外のビッグクラブで主力としてプレーし、日常的に世界基準の強度に触れています。個の能力も、組織としての戦術理解度も高い。だからこそ、それぞれの強みや持ってる能力をお互いに“最大限”まで引き出せるようになったら、本当にすごいチームになると思います」
飾らない言葉の端々に、後輩たちへの深いリスペクトと、女子サッカーの未来に対する揺るぎない信頼が滲んでいた。そんな鮫島さんは、解説者として彼女たちの戦いを見守り続けている。
(砂坂美紀 / Miki Sunasaka)





















