退路を絶ち32歳でドイツ行き「挑戦しなきゃ」 異国の地で驚きの連続…支えになった妻の存在

キールでアナリストとして活動する佐藤孝大【写真:(C) Holstein Kiel】
キールでアナリストとして活動する佐藤孝大【写真:(C) Holstein Kiel】

W杯優勝を目指すため、佐藤孝大氏がアナリストとして欧州行きを決断

「2050年までにワールドカップ優勝という目標に向けて、自分ももっと貢献したい。そのためには僕も力をつけなきゃいけないなって強く感じていました」

【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!

 そんな思いを胸に、海を渡った日本人がいる。ブンデスリーガ2部のキールでアナリストとして奮闘している32歳の佐藤孝大がその人だ。22年カタールワールドカップで日本代表を支えた大事なスタッフの一人だった。(取材・文=中野吉之伴/全3回の第1回目)

   ◇   ◇   ◇    

 JFAで戦い続ける道もあった中、あえて海外挑戦するためにドイツへ飛ぶ決断をしたのが2023年7月。なぜ日本を離れ、ドイツでの挑戦を思い立ったのだろう? 冒頭の言葉のあとに、次のように当時の心境を明かしてくれた。

「なにか『これ』という決定打があったわけではないんです。ただ、仕事柄、いつもいろんな言語で海外の情報を集めていました。語学の勉強もずっとしていました。フットボールそのものの違い、フットボールへの捉え方の違いというのを常日頃から感じてたし、だから、どこかで外に挑戦しなきゃいけないなっていうのを思い続けていたんです」

 一念発起してドイツに渡ったとはいえ、すぐに職場が見つかるわけではない。まだ何も決まっていない状況で渡独をし、ドイツ語を現地の語学学校で学びながら、知り合いのつてをたどりながらコンタクトをとっていく日々。最初の滞在先デュッセルドルフでは当時日本代表MF田中碧らがプレーしていたデュッセルドルフや、日本代表DF板倉滉が所属しているボルシアMGの練習に足を運び、そこでスタッフに直接声をかけては履歴書を渡してアピールしたりと、精力的に動いた。

 ただ、ブンデスリーガクラブが欧州での実績がない日本人をすぐに採用するのは、簡単な話ではない。「無給での研修としてなら」という話は出てきても、正規雇用となると苦い顔をされてしまう。それでも佐藤は覚悟をもって突き進んでいった。

「いろんな提携をたどって研修を受けることはできただろうし、そっちの方がリスクも少ないです。ただ僕としては退路を断って飛び込んでいかないと、という思いでした。お客さんとして扱われるんじゃなくて、ちゃんと雇用してもらって、海外組選手のようにクビ覚悟の状況で戦っていかなきゃダメだ、って。ゲームのプランニングから何含めて、コーチングスタッフとともにやっていくことをしないと、現場で戦ったという経験は得られないなと思っているんです」

現地で助けになった日本人の存在

 苦戦する佐藤にとって大きな助けとなったのがザンクトパウリでホペイロを務める神原健太の存在だった。筑波大学の先輩後輩の関係にあり、渡独前からいろんなところで気にかけてくれていたという。ザンクトパウリの監督に許可をとって練習見学をさせてあげたり、そこでの出会いがいろんなつながりと広がりを生み出し、最終的にキールへとたどり着くことができた。

「キールでも見学という形でいたんですけど、最初からとても親切にしてもらいました。『お金がないから獲得は難しいかも』と言われていたんですけど、当初1週間滞在の予定が1週間伸び、1か月になり、本当にいろんないきさつがあって、最終的に24年の年明けから契約してもらえることになったんです。

 いろいろとお世話になったドイツ人のアナリストの方がいるんですが、『キールはクレイジーなクラブじゃない。10年前にはまだ4部で、そこから3部、2部、1部とちょっとずつ積み上げている。小規模だからいろんなものが見える。政治に左右されるところじゃないから、本当にすべてが学べる。サッカーも学べるし、他のいろんな情報もクラブが小さい分どんどん入ってくると思うよ』とアドバイスをもらいました。それをいまとてもよく感じています」

 ドイツの現場で佐藤は感情表現の仕方に大きな違いを感じ、コミュニケーションの取り方からとても大きな学びになっていると明かす。インテンシティが高いトレーニングの中で、多くの選手が感情を前面に押し出す姿に圧倒されることだってあった。

「例えば紅白戦の時に、審判をやったりもするんですけど、もうオフサイドかどうかのギリギリの判定なんかたくさんあるじゃないですか。必ず『え????』みたいな感じで怒られる(笑)。年配のアシスタントコーチにも同じように感情爆発させちゃったり。日本だったら絶対ない雰囲気ですね。でもそういうものがプレーにも現れるなっていうのはすごく感じるところがあります。

 どんどん悪い雰囲気になっていくのかなと思ったら、周りは平然とそのままプレーを続けているし、トレーニングが終わったら、みんなケロッとして笑い合ったりしている。今はさすがに慣れましたけど、最初は驚きの連続でした」

仕事を辞めた妻とドイツに渡った

 刺激的で充足感に満ちた戦いの場。だが、ここまでの道のりは想像以上にハードだった。「もう一度この挑戦をしたいか?」と聞かれたら悩んでしまうほどに。手がかりも見つけられない最初の半年間は、「メンタル的に相当きついものがあった」と佐藤は振り返る。支えとなったのは奥さんの存在だった。

「夜中にうなされていきなりバッと起き上がって、奥さんをびっくりさせるような時もあったんです。『ストレス溜まってんだね。大丈夫?』ってよく言われてました。それでも僕は、『こっちに来て仕事を探して勝負する』っていう目標があってこっちに来た身です。そんな僕の挑戦を信じて、自分の仕事を辞めて、友達もいない状態でのスタートでも、彼女は何も言わずに一緒に海を渡ってくれた。そして僕のことをいつも笑顔で支えてくれている。本当に感謝の思いでいっぱいです。だから、僕はあきらめずに戦い続けることができているんだと思います」

 僕らは誰でも1人で生きているのではない。互いに支え合いながら、助け助けられながら、生きている。それが困難を乗り越える何よりの大きな力となっていく。

 現地で奮闘し続けた日本人は意外とたくさんいる。選手だけではなく、前述の神原もそうだし、たくさんの人が指導者として、スタッフとして、現地の人々に受け入れられ、リスペクトされ、立ち位置を確立してきた。彼ら・彼女らを通して、ドイツサッカー界における日本人に対する感覚も相当変わってきている。

 指導者やスタッフの海外組が少ないと書かれることが多いが、誰の目に留まることなく、でも現場で奮闘し続けている日本人指導者やスタッフがいなければ、いまの環境はなかったことも間違いない。佐藤の挑戦で、また一つの道が切りひらかれた。どんどん継承されていってほしい。道はそうやってつながっていくのだ。

(中野吉之伴 / Kichinosuke Nakano)



page 1/1

中野吉之伴

なかの・きちのすけ/1977年生まれ。ドイツ・フライブルク在住のサッカー育成指導者。グラスルーツの育成エキスパートになるべく渡独し、ドイツサッカー協会公認A級ライセンス(UEFA-Aレベル)取得。SCフライブルクU-15で研修を積み、地域に密着したドイツのさまざまなクラブで20年以上の育成・指導者キャリアを持つ。育成・指導者関連の記事を多数執筆するほか、ブンデスリーガをはじめ周辺諸国で精力的に取材。著書に『ドイツの子どもは審判なしでサッカーをする』(ナツメ社)、『世界王者ドイツ年代別トレーニングの教科書』(カンゼン)。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング