プロ1年目で南米行きも”出場ゼロ”「心残りです」 異国の地でぶつかった壁「バカにされているんだろうな」

根引謙介監督が経験したプロ1年目でのアルゼンチン行き
日体大柏高校の指揮を執る根引謙介監督は、高校サッカーのビッグイベントである“選手権”にあこがれを抱きつつも、柏レイソルの下部組織でプロを目指していた。1996年に晴れてトップチームに昇格。プロ1年目にJリーグの海外留学制度によって南米の雄アルゼンチンに向かった。異国の地に身を置き、悪戦苦闘。その後、柏レイソルをはじめ、ベガルタ仙台を合わせ、通算11年間のプロ生活を送る。2007年から指導者に転身した。(取材・文=小室 功/全3回の2回目)
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もともと柏レイソルのアカデミー育ちである根引謙介監督は、高校の“部活”や“選手権”とは無縁のサッカー人生を送ってきた。1993年に日本初のプロリーグとしてJリーグが開幕。柏レイソルのジュニアユースに在籍していた根引監督は、当時、中学3年生だった。
「小学生のころから選手権に対するあこがれはありましたが、自分の目標であるプロになるために、どのような選択をすべきか、中学生なりに考えました。最終的に高校サッカーの強豪校ではなく、柏レイソルのユースに進んだわけですが、そこで自分がいちばんになれば、プロへの道も開けるのではないか。そう思いながらサッカーに取り組んでいましたね」(根引監督)
選手権が華やかなりし頃である。1977年9月7日生まれの根引監督の同学年には柳沢敦や平瀬智行、吉原宏太らがいて、ひとつ上には楢崎正剛、松田直樹(故人)、またひとつ下には中村俊輔、北嶋秀朗らがいた。選手権を大いに盛り上げ、のちにJリーグや日本サッカー界を彩っていく選手たちの名を挙げていったらきりがない。
「準決勝や決勝ともなれば、だいたいテレビで見ていましたし、途中の試合もダイジェスト番組で何となくチェックしていました。僕が高3のときの決勝が静岡学戦vs鹿児島実で両校優勝(2-2の引き分け)。シンプルに選手権に出たかったなという気持ちはありました。
ただ、自分が目指していたのは、あくまでもプロになること。選手権に出られたかもしれないけれど、強豪校のような慣れない環境に身を置くより、なじみのあるクラブの下部組織でサッカーを続けたほうが(プロへの道筋に)リアリティがありました」(根引監督)
まさに初志貫徹――。1996年に柏レイソルのトップチームに昇格し、晴れてプロのキャリアをスタートさせた。そして同年の夏、Jリーグの海外留学制度によってアルゼンチンに旅立つ。受け入れ先は、同国の名門クラブのひとつであるインデペンディエンテだった。
「当時の強化部長から『行きたいだろう? 行ってこい!』と。プロ1年目の僕に拒否権はありません(苦笑)。日本からアルゼンチンを見たら、地球の反対側ですからね、そこまでいってサッカーをするなんて、なかなかできない経験でしょう。確かに不安はありましたが、今振り返ると、有意義な1年間だったと思います」(根引監督)
世界的な強国のひとつであるアルゼンチンサッカーのエッセンスに触れられたことが、何よりの収穫だった。日本サッカーとはひと味もふた味も異なる空間のなかで、大いに刺激された。
「何度かスタジアムにいって公式戦を見ましたが、選手の目つきがいきなり変わるというか、ふだんの練習とは違ってスイッチが入る。そんな印象を強く受けましたね。スタジアムの雰囲気もすごかったですし、あの光景は今でも忘れられません。だからこそ、公式戦に出たかったのですが、登録の手続きがうまく進まず、練習と紅白戦の繰り返し。このままアルゼンチンにいても意味があるのかと、自問自答していました。(帰国の意思を伝えようか、どうしようか)しばらくは電話とにらめっこしていました(苦笑)」(根引監督)
とはいうものの、途中で投げ出すわけにもいかない。置かれた状況を受け入れ、やり切ろうと腹をくくった。
「最終的に選手登録ができて、監督からも『どこかのタイミングで使いたい』という言葉をもらったのですが、結局、試合に出られませんでした。僕自身、あのなかに入ってもやれないことはないと感じていましたし、本気度がグッと上がる公式戦のなかで、自分の力を試したかった。それがかなわなかったので、悔しかったです。アルゼンチンでのすべての経験が、いろいろな葛藤や我慢も含め、自分にとって貴重な時間になっています」(根引監督)
異国の地では、言葉の壁を痛感した。
「(アルゼンチンの母国語である)スペイン語がほとんど話せなかったので、いつも辞書を持ち歩いていました。もっと言葉ができたらよかったのに、と思うことがたくさんありました。向こうの選手から、恐らくバカにされているんだろうなと感じても、うまく言い返せない。それが心残りです(苦笑)」(根引監督)
帰国後、一日も早くプロの第一歩を記すべく、トレーニングに励んだ。
待望の公式戦デビューは、21歳の春。1999年4月14日、ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)のアルビレックス新潟戦でチャンスを掴んだ。「あまり出来がよくなくて、散々だったなという記憶しか残っていませんが、(ホームスタジアムの)日立台のピッチはやはり特別でした」と、当時を回想する。
同年5月29日の平塚ベルマーレ(現・湘南ベルマーレ)戦でJリーグデビューも果たし、2001年から公式戦の出場時間がグンと増えた。プロとしての手ごたえを感じつつあった。
ほろ苦い記憶も頭をよぎるインデペンディエンテ、プロとして飛躍した古巣・柏レイソル、約1シーズン半、期限付き移籍していたベガルタ仙台。これら3つのクラブで、通算11年間の現役生活を送り、2007年から指導者の道に進んだ。
「セカンドキャリアを考えたとき、現役のころから、おぼろげながら、自分を育ててくれたクラブで指導者になりたいなと思っていました。西野(朗)さんや池谷(友良)さん、谷(真一郎)さんなど、それまでお世話になった監督やコーチから、いろいろな面で影響を受けました。今の自分のベースになっているのは間違いありません」(根引監督)
古巣のスクールコーチを皮切りに指導者人生をスタートさせ、U-12、U-15、U-18と、各カテゴリーのコーチや監督を歴任。「トップにつながる選手育成」に尽力する。
転機が訪れたのは、2019年だ。その4年前に柏レイソルと日体大柏が相互支援契約を結んだことで、指導者派遣事業の一環として白羽の矢を立てられた。“部活”や“選手権”とは無縁のサッカー人生だったが、心機一転、高校サッカーという未知の世界に指導者として足を踏み入れることになった。(第3回に続く)
(小室 功 / Isao Komuro)





















