ライセンス停止→J監督復帰「迷いはなかった」 チームに必要だった”劇薬”「お前らJ1に行きたいのか」

曺貴裁監督は2021年から京都で指揮を執る
熱血指揮官として知られる曺貴裁監督が京都サンガに赴いたのは、2021年1月。ご存知の通り、湘南ベルマーレを率いていた2019年8月にパワハラ問題が起きて、彼は10月に退任。日本サッカー協会から公認S級コーチライセンス(現プロライセンス)の1年間停止処分を受け、再研修を受けるとともに、2020年に流通経済大学でコーチとして指導を経験。プロの世界に戻るという異例のスタートだった。(取材・文=元川悦子/全8回の2回目)
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「湘南を辞め、空白期間を経て流経大にお世話になった時は、指導の現場に戻ってやるイメージが全然できない状態でした。半年間、現場に立っていなかったので、最初のトレーニングの時なんかは言葉が全然出てこない。正直、ショックでしたね(苦笑)。『こういうことを言わなきゃいけない』と思うのに、言葉にならないもどかしさを感じたところから、少しずつ前に進み、京都からオファーをいただく形になったんです」と曺監督は5年前の模索の日々を述懐する。
京都というのは、彼の生まれ故郷。洛北高校を卒業後、早稲田大学に進み、日立製作所(柏レイソル)や浦和レッズ、ヴィッセル神戸でプレー。98年の指導者転身後も関東にいた時期が長く、京都に戻ることはなかった。そんな彼が大きな挫折を糧に、地元で再出発するということは、やはり大きな意味があったのだ。
「僕が柏でプレーしていた頃、京都にプロサッカークラブができると聞いて、ビックリした記憶があります。それくらい京都はサッカーが根付くうえで難しい場所だと体感的に分かっていました。30年の間にJFLからJ2、J1と上がりましたけど、その動向も当たり前という感覚は全くなかったですね。自分が湘南の監督だった時、京都との対戦はすごく楽しみだった。当時は西京極(陸上競技場)が多かったけど、懐かしさを感じていました。そこに戻って監督をやるという話が舞い込んだ時、本当に有難いと感じたし、『ぜひやりたい』と素直に思えた。迷いはなかったです」と曺監督は神妙な面持ちで言う。
選手たちに疑問をストレートにぶつけた
ただ、当時の京都はJ2に長くとどまっていた。2010年にJ1から陥落すると、2011年以降は10年も最高峰リーグに上がれなかったのだ。そうなると、“万年J2”のような雰囲気が漂いがちだ。曺監督が長く働いた湘南も2000年代にそういう時期を経験しているが、マンネリ感を打開しようと思うなら、ある意味、“劇薬”が必要になってくる。曺監督なら前向きな起爆剤になってくれるという確信があったから、京都側は彼を指名したのではないか。
「僕自身が不安だったのは、選手が本当にJ1に上がりたいと思っているのかどうかという部分でしたね。クラブからは『1年でJ1に上げてくれ』と言われたわけではなかったですし、むしろ『じっくり形を作ってほしい』『サッカーで京都の子供たちに夢を与えてほしい』といったニュアンスの方が強かった気がします。僕も腰を据えてやらせてもらった方が有難いですけど、監督というのは成績が悪かったら1年経たないうちにクビになるかもしれない仕事。やはり結果は求められますし、勝ちたいし、J1に上がりたいという思いはすごく強かった。そういう自分と選手たちが同じ思いでいるのかどうかハッキリとつかめない時期が半年くらい続いて、半信半疑な部分は少なからずありました」
曺監督はその疑問を選手たちにストレートにぶつけたことがあった。それが2021年8月9日のホーム・FC町田ゼルビア戦だ。2021年のJ2は京都、ジュビロ磐田、FC琉球、アルビレックス新潟、モンテディオ山形らが上位争いを展開。町田戦の時点で京都は首位を走っていたものの、かなり拮抗した状態になっていた。
1つ1つのゲームが大きな意味を持つなか、この日の京都はピーター・ウタカ(栃木シティ)が先制点を挙げたものの、前半のうちに同点に追いつかれてしまったのだ。
「お前ら、J1行きたいか。J1はどういうところだ。それを知らないで終わるのか、知って終わるのかでサッカー人生は全然違う。行きたくないやつは俺に言って交代しろ。自己申告しろ」
選手たちと真正面から向き合った1年目
ハーフタイムに激高する指揮官の言葉を、現在も京都にいる松田天馬、武田翔平、福岡慎平、今は別の環境にいる川崎颯太(マインツ)、荻原拓也(浦和)らは厳しい表情で受け止めたに違いない。
「この話をして送り出した後、後半になって選手たちの顔色がガラリと変わった。『ああ、こいつらは本気でJ1に行きたいんだ』『J2で優勝したいんだ』と分かりましたね。彼らの本音を推し量るのに半年はかかりましたけど、この日を境に『これは絶対に昇格しないといけないな』と自分自身も痛感し、だんだんプレッシャーがかかるようになっていきました(苦笑)。
最終的にラスト2節のジェフ千葉戦(11月28日=フクアリ)で昇格が決まったんですけど、相当な大混戦でした。自動昇格の2枠は僕らとジュビロが取りましたけど、本当にどっちに転んでも分からないくらいだった。全員の力で何とか壁を乗り越えることができました」と指揮官は確固たる基盤を作った京都1年目を今一度、振り返っていた。
当時のチームはウタカや李忠成、森脇良太(解説者)のようなベテランもいたが、若い選手が圧倒的に多かった。彼らが躍動感を持ってプレーし、日に日に成長していったのも印象的だった。
「オギ(荻原)とか白井康介(FC東京)なんかも育てながらのシーズンでしたね。オギなんかは『俺は俺だから勝手にやるよ』という雰囲気に見えるかもしれないけど、全然そんな人間じゃなくて、むしろナーバスなところがある。彼のキャラクターをよく理解してもらえるチームに行けば、物凄く輝きますね。
当時は4年前でまだ若くて、開き直って前へ前へ向かうというスタンスで、まさにサンガの象徴みたいなプレーをしていました。勢いもすごくあったしね。今、福田(心之助)とか須貝(英大)、佐藤(響)がやっていますけど、彼らの原型を作ったのはオギや白井。2人ともよく泣きましたけど(笑)、人間は痛いことを言うとガラッと変わる。彼らと向き合って僕自身もすごく学びがありました」
選手たちと真正面から向き合える自身の強みを故郷で取り戻した曺監督。再起1年目の成功体験は非常に大きかったと言っていい。(第3回に続く)
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)

元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。





















