優勝の2日前に告げられた”契約満了” 監督初タイトルも「苦渋の決断」…2クラブで味わった天国と地獄

甲府で天皇杯制覇を成し遂げた吉田達磨氏【写真:産経新聞社】
甲府で天皇杯制覇を成し遂げた吉田達磨氏【写真:産経新聞社】

吉田達磨氏が甲府で成し遂げたACL出場

“日本人初の戦術コーチ”として韓国のKリーグで再出発した吉田達磨氏(大田ハナシチズン)。吉田氏が近年Jリーグで指揮を執ったヴァンフォーレ甲府と徳島ヴォルティスで味わった天国と地獄について振り返った。(取材・文=元川悦子/全6回の第5回目)

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 2017年1月~2018年4月までトップチーム指揮官を務めた甲府に2022年1月から再び戻ることになった吉田氏。同年の甲府は須貝英大(京都)、長谷川元希(新潟)ら現在J1でプレーしている選手もいて、戦力的には悪くなかった。ところが、J2開幕後はなかなか大きな波に乗れず、4月に入って4連勝するも、中位をさまよう状況が続いた。

「夏場までは(東京)ヴェルディ、ジェフ(ユナイテッド千葉)、徳島(ヴォルティス)、甲府あたりで中位からプレーオフを争う構図になっていました」と吉田氏は当時のチーム状態を説明する。

 一方で並行して戦っていた天皇杯では当時J1の北海道コンサドーレ札幌、サガン鳥栖、アビスパ福岡、鹿島アントラーズを次々と撃破。ついにはファイナルまで勝ち上がり、サンフレッチェ広島とタイトルを賭けて戦うところまで辿り着いた。

「天皇杯でベスト8に入ったら、頂点を目指すと選手には伝えていました。分岐点は8月末の徳島のアウェーゲームを落としたこと。プレーオフが遠のいたことで、佐久間さんとも話し合い、このチャンスに天皇杯を頑張ってみようとなりました。リーグを諦めるわけではないけれど、来季に向けても新しいチャレンジをしていこうと。

 当時、基本は3バックで戦っていましたが、4バックをやったり、しっかりと挑戦している姿を見てもらおうとしました。攻守におけるスタッツも上位を上回るものを出せていましたが、チャンスが多くなり、またピンチが減っても、最後は質の問題に行き着く。そこは変えられませんでした。

 当時の甲府が2つの大きな戦いをどちらも取りに行くことも現実的ではなかったと思います。天皇杯で勝っている間、リーグでは全く勝てませんでした。スタッツに見合う結果を出したいとストライカーの補強もずっとお願いしていましたけど、予算的に厳しいのも理解していましたし、ある意味、やむを得ない状況ではありました」と吉田氏は3年前の苦悩を述懐する。

 迎えた10月16日。日産スタジアムでの大一番に挑んだ甲府は、見事な試合運びを見せ、最終的に広島をPK戦で撃破。クラブ初のタイトルを手中にした。が、吉田氏の契約満了はすでに決まっていたという。

「決勝の2日前には話し合いのもと契約更新をしないという判断が下されていました。リーグで16位に低迷していて、チームは順位ほど悪くない、天皇杯も決勝まで行っている、そんな中で佐久間さんも苦渋の決断だったと思うし、僕自身も監督としてやるべきことはやっての今の結果だし、結局は自分の力不足、だからまたとないこのチャンスを何としても勝ち取って、お世話になったクラブに、山梨に、ファンやサポーターに、ACLの切符を残したかった。そういう気持ちで広島戦に挑んだんです。

 天皇杯を獲ったことで、彼らは翌年のACL(AFCチャンピオンズリーグ)も経験できた。J1昇格には導けなかったですけど、ああいう結果を残せたので、多少なりとも甲府への恩返しになったかなとは感じています」

 こう語る吉田氏には一抹の悔しさがにじみ出ていた。監督人生初のタイトルを心の底から喜べない環境というのは、できれば経験したくはなかったはず。今後、タイトルを獲るチャンスが訪れた場合には、心の底から歓喜を爆発させてほしいものである。

徳島で味わった苦しい期間

 甲府の後、8か月のインターバルを経て、赴いた徳島でも彼の苦悩の日々は続いた。2023年の徳島はレアル・ソシエダで分析コーチを務めていたベニャート・ラバイン監督(レアル・マドリード分析担当)が就任。柿谷曜一朗、渡大生が復帰し、森海渡(千葉)、千葉寛汰(清水)らが新戦力として加わるなど、メンバー的には悪くなかった。が、序盤から結果が出ず、8月13日の栃木SC戦で引き分け、21位に沈んだタイミングで指揮官が更迭され、吉田氏がチーム再建請負人として赴くことになったのだ。

「徳島はリカさん(リカルド・ロドリゲス/現柏監督)、ダニ(ダニエル・ポヤトス/現G大阪監督)、ベニとスペイン路線で来ていて、基本的には外国人監督でやっていくという方向性でチーム強化をしていたと思います。ところが2023年はチームがうまくいかず、勝ち点も稼げない状況だった。そこで当時の岡田さん(明彦/強化本部長)が『日本人だったら達磨だよね』と推してくれたようなんです。

 自分もオファーを受けた以上は何としても残留させなければいけないと覚悟を持って徳島に行き、15位でフィニッシュ。J3降格は回避することができました」と厳しかった3か月間を振り返る。

 とはいえ、2024年もそのままでいいわけではない。吉田氏が柏アカデミーで指導していた時代の教え子である島川俊郎(相模原)、橋本健人(新潟)やブラウンノア賢信(岡山)といった新戦力を補強し、「チーム全体が生まれ変わらないといけない」という厳しい姿勢で始動したが、同年も開幕から3連敗と予想外の低迷を強いられた。結局、7試合を1勝1分5敗で終えたタイミングの3月31日、解任が発表され、同時に岡田強化本部長も辞任するという激震が走ったのである。

「僕の徳島での仕事は半年間で終わってしまいましたけど、呼んでいただいた岡田さんはじめ、関わっていただいた皆様には感謝しています。だからこそ徳島というクラブ・環境に入り込めたという感触を最後まで持てなかったのが悔しいですね。それは10年間監督をやってきて初めての経験でした。自分自身に対して物凄い無力感を覚えたし、2023年に苦しい残留争いを皆で乗り越えて、生まれ変わっての再スタートだと思っていたので。

 サポーターからも3試合目から『辞めろ』と言われ続けたし、人格や存在までも否定されることに心が傷ついたのは確かです。あそこまでノーを突きつけられてしまうと、それを勝ちへの力に変えることは僕の力では本当に難しかった。徳島での日々は今後もずっと心の中に残し続けていきます」

 近年働いた2つのクラブで天国と地獄を味わった吉田氏。「サッカーの監督は9割5分が解任されるとても厳しい仕事」と2024年途中に退任したSC相模原の戸田和幸監督も苦渋の表情を浮かべていたが、彼自身もその現実を改めて痛感させられたのではないか。

 それでもプロフェッショナルの世界で生きている以上、先に進まなければいけない。新天地・韓国で新たなチャレンジに打って出て1年。吉田氏は徐々に指導者として再生されつつある。異国での経験をいつかJリーグで還元し、次こそは大きな成功を手にしてほしいものである。(第6回に続く)

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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