運送会社「いつでも来いや」→広島「君に来てほしい」 久保竜彦をプロ選手にした“5cm”の運

久保竜彦氏が広島入りの経緯を回顧【写真:中野香代】
久保竜彦氏が広島入りの経緯を回顧【写真:中野香代】

「『夏に来た福岡の高校生はどうか』っていう話になったそうなんです」

 話題を少し結婚以前に、久保竜彦の高校3年生のときまで巻き戻したい。喧嘩上等のサッカー少年だった久保が、福岡県のなかでも決して突出したプレーヤーでなかったことは、以前書いたとおりだ。国体の県選抜チームには選ばれていたものの、中心選手だったわけではない。(取材・文=中野和也/全10回の5回目)

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 後にJリーグで数多くのDFを震え上がらせた左足の破壊力も「そんなに目立ったわけではない」(久保)。本気を出したら誰にも止められないと評判だったスピードについても、「そんなにあるほうではなかった」と久保は述懐する。

 プロのサッカー選手になれるとは、全く思っていなかった。そういうレベルではないと感じていた。

 高3の夏休み、筑陽学園高の吉浦茂和監督からの推薦でサンフレッチェ広島のトレーニングに参加したときも、まったく手応えはなかった。大学のトレーニングにも参加したけれど、やれるという実感もない。地元・福岡の大学から「特待生で」という声はかかったが、久保も周囲も、乗り気ではなかった。

「地元の運送会社からは『いつでも来いや』と言われていた。サッカー選手でやるだけのレベルじゃないと分かっていたから……」

 プロからの誘いもないし、大学サッカーも全国的にはレベルが高い。もう、トラックの運転手になろうかな。そんな思いになっていた12月、サンフレッチェ広島からセレクションの返事が来た。

「来年から、君に来てほしい。契約したい」

 想像もしていなかったオファー。どうして半年もかかったのか、そこは久保には分からない。ただ突然、諦めかけたプロへの道が拓けたことは確かだ。

 数日後、今西和男総監督が筑陽学園高を訪問。あっと言う間に契約は整い、久保竜彦はプロサッカー選手となった。トラックの運転手になるつもりだったのに、気づけば広島にいた。

 周囲の先輩たちは、後に彼にこう言った。

「どうしてお前が広島に来たのか、分からんかった。そもそもトレーニングでルールも理解していなかったし。ワンタッチ縛りでもツータッチルールでも、全部フリータッチで(笑)。他のヤツと間違えたんじゃないかって思ったよ」

明暗を分けた5センチの差

 プロ契約のとき、今西総監督から彼はこんなことを言われている。

「レフティだし、路木龍次のライバルにもなれる」

 路木は1996年のアトランタ五輪に出場し、ブラジル戦で得点につながるクロスを入れた名左サイドバック。ただ、それまで攻撃的な位置でプレーしていた久保にとって、サイドバックというポジションがピンとくるはずもなく、「でもプロになれるんなら、いいか」という感覚だったという。

 どうして、返事が12月になったのか。ここからは、久保の証言を書いておこう。

「あとからいろんな人から聞いたんですけど、どうも採用枠が1つ余っていたのを、ずっと(強化の人が)忘れていたらしいんですよね。で、12月になって『誰か、いいのはおらんのか』っていう話になって(笑)。だから、とにかくラッキーだったんですよ、俺は。そこで『夏に来た福岡の高校生はどうか』っていう話になったそうなんです」

 このとき、セレクションに行ったのは久保のほかにもう一人いた。後に徳島ヴォルティスで活躍することになる大場啓だ。

「で、どっちにしようかっていう話になったときに『背が高い方がいいんじゃないか』という話になって、俺が採用されたということを聞いています」

 ちなみに大場は176センチ、久保は181センチ。5センチの差が、明暗を分けた。また、久保がレフティだったことも、評価ポイントだったという。

 彼が言うように、久保竜彦には運がある。少年の頃、左手の小指が千切れかけたときも、「左足の小指を切って手につなげよう」という医者の提案を母が拒否していなかったら、サッカー選手としての未来はおそらくなかった。中学の先生が必死になって高校に売り込み、筑陽学園高への推薦が決まっていなかったら、吉浦監督が広島とのパイプを持っていなかったら。

 ただ実は、自分自身はそう感じていなくても、小さな幸運は身近に転がっている。それを活かせるか、それとも見逃してしまうか。運命はそこで決まってくる場合が多い。よく「運も実力のうち」というが、それは正確ではない。「運に気付き、それを活かせる実力を持っている」というほうがより正確である。

1年目でFWへコンバート

 1995年、久保竜彦はプロサッカー選手となった。

 1年目、公式戦出場はゼロ。当時はトップとサテライト、野球でいうところの「1軍・2軍」のような形で明確に区分され、練習場も別。サテライトの監督に認められなければ、トップチームの練習に参加することも許されなかった。そして久保もまた、ほとんどの時間をサテライトの練習場で過ごしている。

 彼が加入したときのサテライト監督は河内勝幸。元日本代表MFの名選手だった河内監督は当初、さまざまなポジションで久保を試していた。だが、九州の野生児が持つ類い稀な身体能力や攻撃的な性格を見て、彼は若者にFW転向を命じる。1年目の夏に行われたこのコンバートが久保とサンフレッチェ広島、日本サッカーの運命を変えることになるのだが、そんなことを当時の彼が知るはずもない。

 ディエゴ・マラドーナに憧れ、トップ下でプレーしたいと思っていた若者は、このコンバートをどう思ったか。1996年夏に行ったインタビューで、彼はこう答えている。

「ゴールの近くでシュートが打てるなあって、思ったっす」

 シンプル。そしてこういう男が、歴史をつくる。

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