契約満了で連絡なし「精神的にかなり参った」 始動日前日に合意…9時間運転し練習へ

京都を契約満了となった山瀬功治、意識し始めた「引退する覚悟」
2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口までの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の5回目)
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山瀬は2011年に横浜F・マリノスから川崎フロンターレへ職場を変えたが、「それまで在籍した4チームの中で一番何もできず、力不足を感じた2年間だった」と今でも悔しがる。1年目の前半は5点を挙げたが、チームは7月~9月にかけて泥沼の8連敗。2年目はグロインペイン症候群で4か月休むなど、リーグ戦17試合で2得点と達成感には到底浸れなかった。
シーズン中からJ2の京都サンガF.C.が熱心に声を掛けてくれた。大木武監督の下、3位で昇格プレーオフに進んだこともあり、J1に復帰できる可能性も高いと見立てた。だが、何より選手として期待されたことに喜びを感じ、これが決め手となって他チームからのオファーを待たずに移籍を決めた。
京都で5チーム目とあり、浦和レッズ移籍当初に苦しんだ極度の人見知りは解消されていた。「年齢は上から2番目なので、さすがに人とのコミュニケーションが苦手ではまずいですよね」と笑い、「自分も経験したし、若い選手が近寄りにくい気持ちが分かるから、僕の方から砕けていきました」とベテランらしく振る舞った。
2年目に主将に指名された。横浜FM時代に副将の経験はあったが、初めてのことでどうやったらいいのかよく分からない。「言葉で引っ張るイメージの松田直樹さんや河合竜二さんが理想のキャプテン像でしたが、実際にやってみるとなかなかうまくいきませんでした」と述懐する。成績不振で6月に解任されたバドゥ監督は、選手たちとの信頼関係をなかなか築けなかっただけに主将の苦労も絶えなかった。
京都では選手としての大きな転換期を迎えた。横浜FMへの転籍を契機にドリブルが持ち味となったように、京都の3年目からプレースタイルが一新。2年目の途中で仕掛けが通用しなくなったことに気付き、「生き残っていくためにもチームの潤滑油というか、縁の下の力持ち的役割を意識し始めたんです」と、4-4-2の2列目で攻撃のバランスを取る役回りへとかじを切ったのだ。
私生活でも大きな変化があった。かつての内向的で恥ずかしがり屋の姿が一変し、地域の人々と盛んに交流するようになった。同じマンションの住人から、声を掛けられたのがきっかけだ。
「経営者の集まりがあるのでご一緒しませんか? と誘われたのが始まりです。京都に来るまでは近所同士のお付き合いはなく、外では選手として応対してきましたが、京都ではそういう線引きがなくなってきたんです。近所のお兄さんとして接し、いろんな行事や交わりに参加することにも抵抗がなくなりました。行動範囲も広がった。これも妻のおかげです」
京都には今でも夫婦そろって懇意にする友人が大勢いる。
4年目の2016年は、リーグ34試合でチーム最多の7点を挙げたが、契約満了となった。
横浜FMへ移籍する際に初めて代理人を付けたことで、京都までの移籍はスムーズに運んだのだが、アビスパ福岡に決まるまでは難儀だった。山瀬は「このときはかなり焦りました。いいプレーができなかったら練習で頑張ろうって切り替えられますが、こればっかりは自力では解決できない。チーム始動日までに連絡がこなければ駄目だと思ったので、精神的にかなり参りました」と当時の心中を打ち明ける。
それまで横浜FMへの移籍を除くと遅くても年内、早い時は11月末~12月初頭には決まっていた。ようやく福岡から吉報が届き、契約合意に至ったのが2017年1月9日の始動日前日の早朝だった。山瀬はそれからすぐに身支度をして、京都から自家用車で休憩を挟んで約9時間運転し、福岡に到着。翌日のチーム初練習に参加した。
1年目は出場数、出場時間ともチームで3番目に多い40試合、3427分を記録。得点も3番目に多く、全試合に先発した。古巣・京都との第3節では前半3分に先制点を奪い、三浦知良に並ぶ18年連続ゴールを達成。「この年、連続得点というものが初めて注目されるようになったんですね。毎年取っていたのは知っていたし、毎年取りたいとも思ったので、それからかなり意識するようになりました」と記録にこだわるようになった。
当初はサイドハーフを担当したが、途中からボランチを任され新境地を開拓する。全体のバランスを取ることに努め、セカンドボールの回収など守りを重要視し始めた。2年目はピッチに立つ機会が減り、出場29試合のうち先発11試合、得点1という不本意な成績で契約満了を通告される。
「京都を終わり、なかなか移籍先が決まらなかったときから、引退する覚悟を持ちながら過ごしてきました。毎年その繰り返しで、常に引退の二文字がちらついていました」
次の移籍先である愛媛FCへの加入が決まったのは、チーム練習がスタートしてから1か月遅れの2019年2月6日のことだった。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。