ゴール決めたのに「それは違う」…後の代表監督との“出会い” イタリアで受けた衝撃

元日本代表FW大黒将志氏が2005年の北朝鮮戦を振り返った【写真:近藤俊哉】
元日本代表FW大黒将志氏が2005年の北朝鮮戦を振り返った【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:大黒将志(川崎フロンターレコーチ)第3回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー新連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。今季から川崎フロンターレのコーチに就任した大黒将志の現役時代といえば、ドイツW杯アジア最終予選初戦の決勝ゴールを思い出す人は多いだろう。北朝鮮を土壇場で破った劇的弾の背景を今一度振り返りながら、翌年に移籍したイタリアでのストライカーとしての学びについて明かした。(取材・文=二宮寿朗/全5回の3回目)

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 2005年2月9日、埼玉スタジアム。

 日本代表がフランスW杯出場を決めた“ジョホールバルの歓喜”以来となるアジア最終予選の初戦とあって、異様な盛り上がりを見せる。

 上空にはテレビ局のヘリコプターが飛び、朝からニュース、情報番組でも取り上げられたほど。スタジアムはあふれんばかりのファン、サポーターが詰めかけ、ヒリヒリした緊張感に包まれていた。

 前半4分に小笠原満男の直接FKで先制しながらも、後半16分に北朝鮮代表のゴールで同点に追いつかれ、欧州から直前に帰国した高原直泰、中村俊輔を投入するもゴールが奪えないもどかしい展開が続く。そんな状況でジーコ監督が最後のカードを切る。後半34分、玉田圭司に代わって、代表2戦目の大黒将志がピッチに立った。

 迎えた後半アディショナルタイム1分。小笠原が右からクロスを送ると相手GKが前に弾き、正面にいた福西崇史がアウトサイドでそのまま前に出す。構えていた大黒は振り向きざまに左足を振り抜いてゴールをこじ開けた。

 スタジアムが揺れた。代表初ゴールが最終予選の初戦で勝ち点3を積み上げる殊勲の一発となったのだ。

「(パスを出した)フクさんが、うまかった。ただ僕は練習でチームメイトがどういうプレーをするか観察していたので、パスが来るんじゃないかと予想していました。あれがもし(ドイツW杯本大会メンバーの)ツボさん(坪井慶介)であれば、たぶん自分でシュートを打つと思うんで『やめてくれ』とは言いますけどね(笑)。フクさんなら必ず落とすと思ったし、ゴールを背にしていましたけど、ボールが来た瞬間、距離的にもターンして足を振れば入る確信みたいなものはありました」

 ボールの出し手を見て準備する。今までやってきたことが、日本代表でも活かされたわけだ。中田英寿や中村など日本のトップが集まる集団だけに、自分がいい動きをすれば当然のようにボールが出てきた。

「みんなうまかったですね。別にどう出してくれなんて要求したこと一度もない。見たら分かるっていう感じで(ボールが)出てくるので」

北朝鮮戦で土壇場の展開でゴールを決めた【写真:産経新聞社】
北朝鮮戦で土壇場の展開でゴールを決めた【写真:産経新聞社】

後に日本代表監督となるアルベルト・ザッケローニにも学んだセリエA時代

 ただ特筆すべきは、代表2戦目とは思えないあのプレッシャーのなかでの落ち着きぶりだった。ガンバ大阪でプレーするように、日本代表でもプレーしていた。

「その前にカザフスタン代表と試合をやって、変な緊張があって動きがちょっと良くなかったんですね。なので力を抜いてプレーすることを次の北朝鮮代表との試合では心がけました。遊びで始めたサッカーじゃないですか。たとえ日本代表のレベルであっても、そこはなくさないようにしよう、と。

 代表での1点も、Jリーグでの1点も僕にとっては一緒だと思っています。代表で決めたからといって僕のなかで50点の価値があるわけではないので。だから代表でもJリーグでも、僕は同じ感覚でやっていましたね」

 日本代表がドイツW杯出場を決める6月、タイで行われた北朝鮮戦でもゴールを挙げる。また、その年ドイツで開催されたコンフェデレーションズカップでもギリシャ戦、ブラジル戦でもゴールネットを揺らした。

 翌年の本大会ではグループステージ3試合いずれも途中出場したものの得点を奪えず、チームも1分2敗で最下位に終わった。ドイツ大会後、大黒はフランス2部グルノーブルからイタリア1部トリノへの移籍を果たす。チームを率いていたのが、後に日本代表監督となるアルベルト・ザッケローニであった。FWではなく、中盤で起用されることが多かったが、このイタリア期が大黒の成長を呼び込む。

「ザックさんは、守備はもちろんのこと攻撃でも決めごとが多かった。練習のなかで点を決めても『それは違う』って言わたこともありました。すごく細かかった。ボールをもらう時も必ずチェックの動きを入れろとか、当たり前と言えば当たり前ですけど、そういうところを凄く大事にされていました。徹底するから習慣になっていくんだと思います」

 ザッケローニは成績不振によってシーズン途中に契約解除となるが、細部に対するここまでのこだわりは大黒にとっては新鮮だった。1年目は7試合、2年目は3試合の出場にとどまるが、モチベーションが落ちたことはなかった。セリエAが学びの宝庫だったからだ。

 特に感銘を受けたのが、ワンタッチゴーラーとして名を馳せたイタリア代表のストライカー、フィリッポ・インザーギ(当時ACミラン)の存在だ。ピッチレベルでその凄味を直に感じることができたのは、何事にも代えがたい財産となる。

フィリッポ・インザーギのワンタッチゴールから受けた衝撃「究極の技術」

 インザーギの名前を出すと、大黒は大きく一つため息をついてから語り始める。

「あのワンタッチゴールは究極の技術。サッカーを分かってない人は『ただ、いいところにいただけ』で片づけるけど、たまたまで200回も300回もそこにいることはできないと思います。そのタイミングが1秒ずれるだけでベストなポジションが違ってくるのに、それでもインザーギはベストなポジションを連続して取っている。止まっているのもわざとであって、それ自体もアクションですから。マークを外した状態を作るのが、一番うまかったのはやっぱりインザーギだと思いますね。僕からしたら“先生”です」

 インザーギを含めて、セリエAで活躍するストライカーの動画を見ることがいつしか日課になった。ゴールに偶然はなく、ポジショニング、駆け引きといったゴールにつなげていくプレーを一つひとつ自分のなかで紐解き、整理していった。大黒が得意とするゴールを見ないで打つ術も、このトリノ時代に磨いたもの。見る動作によってシュートに入るのが一瞬遅くなるため、相手とゴールの位置を事前に把握したうえでどう打てばいいかを感覚に刷り込ませた。イタリアで活躍こそできなかったが、抱えきれないほどの収穫を手にした。

 学んできたものをピッチで試したい、表現したい――。大黒は野望を持って2年半ぶりにJリーグへの復帰を決断する。

■大黒将志 / Masashi Oguro
1980年5月4日生まれ、大阪府出身。G大阪の下部組織で育ち1999年にトップ昇格を果たす。札幌への期限付き移籍を経て、2004年にG大阪でFWとしてブレイク。翌年にはチームのJ1制覇に貢献した。06年1月からグルノーブル(フランス)、同年8月からトリノ(イタリア)でプレー。08年夏のJリーグ復帰後も得点力の高さを維持し、京都在籍時の14年には26ゴールを奪いJ2得点王に輝いた。日本代表としても活躍し、05年2月のドイツW杯アジア最終予選・北朝鮮戦で決めた決勝点で一躍国民的ヒーローに。21年に現役引退。G大阪アカデミーのストライカーコーチ、FCティアモ枚方ヘッドコーチを経て今季から川崎のコーチに就任した。

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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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