J新人王が歩んだ夜間学生との“二足の草鞋” 長期離脱→「悩み抜いた」名門移籍の裏側

2024年限りで現役を引退した山瀬功治、札幌ではJリーガーと大学生を掛け持ち
2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口までの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の1回目)
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札幌市で生まれた山瀬は、地元のSSS札幌サッカースクールで小学生時代を過ごし、卒業と同時に武者修行のためブラジルへ渡った。スクール創設者でもある柴田勗校長から「技術を学ぶなら若い頃がいい」と勧められ、1994年3月から96年7月までサッカー留学。サンベルナルド市に住み、そこからサンパウロ大学のグラウンドに通って練習した。柴田校長は名将、テレ・サンターナ元ブラジル代表監督とも旧知の仲で、フットサルの起源とされるサロンフットボールを日本に紹介した人物だ。
サッカー王国に2年半滞在し、高度なテクニックを身に付けて中学3年の夏休みに帰国すると、SSS札幌のジュニアユースでプレー。直近の記録で全国高校選手権に13度、インターハイに8度出場した北海高校を進学先に選び、部活動に励んだ。
山瀬の年代は、Jリーグや日本代表で活躍した選手の大半が高体連出身で、クラブチーム育ちはごく少数だった。高校2年の夏に香川県で開催されたインターハイが、在学中に参加した唯一の全国大会だ。攻撃的MFとして出場し、1回戦は佐野日大(栃木)に5-0で大勝したが、2回戦は地元の高松商に1-2で敗れた。
3年生でコンサドーレ札幌の強化指定選手(現・特別指定選手)となる。プロフットボーラーへぐっと前進したわけだが、Jリーガーへの憧れというのは強化指定を受けるまでは意外にも希薄だった。札幌がJリーグに昇格したのは高校2年の1998年。小学生や中学生の頃から、ひいきの地元チームを応援する環境ではなかった。
「それまでJリーグは(札幌)厚別(公園競技場)で年に1回くらい開催されるだけで、観戦する機会も少なく身近な存在ではありませんでした。コンサドーレが創設されてもテレビの世界という感じ。絶対プロ選手になるんだという思いもなく、純粋にサッカーが好きだったので、とにかくうまくなりたかっただけなんです。プロを少し意識し始めたのは強化指定になったタイミングですが、高校選手権やインターハイに出ることが一番の目標でしたね」
慎重居士な男だ。
1999年の秋、札幌から獲得の申し出があったが、プロとして成功するかどうかは全くの未知数。高校の担任からは推薦で大学に進学し、卒業後のプロ入りを助言された。「ただ、大学に行ってからもオファーがあるとは限らないじゃないですか。後悔するくらいなら挑戦しようと思いました。でもクビになったときのことを考え、大学にも行くことにしたんです」と高校の系列である北海学園大経済学部の夜間に入学する。プロのキャリアをスタートさせた2000年から3年間は、Jリーガーと大学生を掛け持ちした。
背番号28の1年目は、14試合(先発3)で2得点。初めてベンチ入りした第10節の湘南ベルマーレ戦の後半20分に出番がくると、延長前半7分にヘッドでVゴールを決め、デビュー戦でヒーローになった。「得点した瞬間、会場の熱気や雰囲気に圧倒されました」。2点目は第34節のベガルタ仙台戦で、これも価値ある決勝点だった。チームはJ2を制し、J1復帰を果たした。
プロでやっていけそうな手応えを感じて迎えた2年目は、30試合中22試合に先発し3得点。Jリーグ新人王にも輝く。1次リーグで敗退したが、20歳以下日本代表のエースとして出場した世界ユース選手権(現・U-20ワールドカップ)では、日本の4得点中2得点を挙げた。フル代表招集や他クラブへの移籍を考えてもおかしくない活躍だった。
「考えたこともないですね。3年目は個人的にもっと数字を残し、せっかく残留できたのだからチームの成績も上げたいと思っただけ。まだプロで活躍する絶対的な自信はありませんでしたから」
前途洋々も…背番号10を襲った不運「切れていなければ止まるのに伸びた」
背番号が10に変わった。3年目の若手に寄せるクラブの期待度が伝わってくる。開幕から出場停止の1試合を除き、東京ヴェルディとの第1ステージ最終戦まで先発で起用された。ここまで4得点はチーム最多。ゲームを組み立て、得点にも絡む才能豊かなプレーメーカーの未来は明るく、前途洋々に思われた。
だが8月17日に行われた東京ヴェルディ戦で不運が襲った。前半25分過ぎ、山瀬はピッチに倒れ込んだ。右膝前十字靭帯断裂だった。
「最初は痛くてたまらなかったけど、2分くらいで和らいだので続けられると思いました。でも医師が膝を伸ばしながら診断していくと、前十字の箇所も伸びるんです。切れていなければ止まるのに伸びた。『やめておこう』って医師からNGが出ました」
復帰までに8か月と言われたが、長いと感じただけでそれほどショックを受けなかった。手術、治療、リハビリまでの明確な説明を医師から聞き、時間は掛かるが必ず治ると信じることができたからだ。
だが、リハビリ中に怪我より痛心のタネがあった。浦和レッズから移籍話が舞い込んだのだ。2002年の札幌は最下位に沈み、2度目のJ2陥落が決まっただけに、残留か移籍かで思案に暮れるときが続いた。
逡巡した末、「選手として成長するため、少しでも高いレベルでやりたいという思いが強かった。札幌には申し訳ないですが、J1の舞台でプレーしたい僕の考えを優先させてもらい、浦和への移籍を決めました。悩み抜いた末の決断でした」と苦しかった胸中を明かした。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。