元J助っ人に残る後悔…相手蹴り「馬鹿だったね」 V懸けた決戦の一発レッド「許せない」【インタビュー】
【あのブラジル人元Jリーガーは今?】三都主アレサンドロ:第1回——Jリーグ時代の心に刻まれる瞬間を回想
サッカー人生において幾つかの大きなターニングポイントを経てきた元Jリーガー、三都主アレサンドロ。1994年、16歳でブラジルのパラナ州マリンガ市を離れ、留学生として来日。その後、21年間に渡って日本でプレーした彼は、帰化し、日本代表としても戦うなど、最高峰で力を発揮し続けた。そんな彼の経歴を綴る3回シリーズ。第1回では、明徳義塾高等学校から始まり、清水エスパルス、浦和レッズ、名古屋グランパスをはじめ、栃木SC、FC岐阜と続いたキャリアの中で、心に刻まれる瞬間を振り返る。(取材・文=藤原清美/全3回の1回目)
【PR】ABEMA de DAZN、明治安田J1リーグの試合を毎節2試合無料生中継!
◇ ◇ ◇
「今でも分からないんですよ。僕が16歳で、なんであれほど強く、絶対行きたい、このチャンスを逃したくない、僕の夢だって決心したのか。
マリンガっていうのは、パラナ州第3の街なんですけど、サッカーではブラジル選手権1部や2部のレベルまで行ってない。だから、その時は海外でやれるチャンスだったんですよね。
当時は、ジーコやアルシンド、ペレイラとか、ブラジルのスター選手がJリーグで活躍していたのもあります。僕が行くのは学校だけど、そこで結果を出したら、プロへの道が出てくると信じていたんです」
実際に日本に着いてから、清水エスパルスでプロになるまでの道のりで、10代の彼は何を感じていたのか。
「3年間、苦しい時期も、めっちゃ楽しい時期もありました。明徳というのは、すごく厳しかったんですよね。ルールや時間を守らないと、先生たちにパチンパチンされる。留学生はされないんだけど、日本のスタイルってこうなんだって感じて。
もちろん、明徳を出てから、『いや、明徳だけだったのか』っていうのはあったんですけど(笑)、ともかく何があっても乗り越えないと、プロへの道は見えて来ないと思っていたので。
エスパルスの前に、本田技研のテストに落ちて、帰国せざるを得ないか、ということもあったんです。でも、その2週間後にエスパルスでも入団テスト受けた。最初の1週間、サテライトで練習して、次の週はトップチームで練習して。で、当時の(オズワルド・)アルディレス監督が見てくれて、スタイル的には彼が好きなタイプだったので、契約できたんですよね」
入団してからは、タイトルに貢献し、1999年には22歳の歴代最年少でJリーグ最優秀選手賞も受賞した。プロ入りまでの簡単ではなかった道のりを経て、成功へのターニングポイントがあったのだろうか。
「いつも必死なんですよ。MVPをもらったからって、また次の年も活躍しないとクビにされる。外国人の契約は限られるし、プロの世界って、どんどんレベルアップしていかないと置いていかれる。そう言うと、真面目かってなるんですけど、最初からすごく期待されている選手でもなかったので、評価されたとしても、いつも必死。それがまぁ、アレックスかなって感じですよね。
あの頃、エスパルスには代表選手が多かったじゃないですか。森岡(隆三)、戸田(和幸)、昔の(長谷川)健太さん、ノボリ(澤登正朗)さん、堀池(巧)選手、その中に自分がいるっていうのは、夢のようだった。レベルの高い選手たちと一緒にやれたからこそ、自分のレベルも上げることができたって思いますね」
静岡ダービーのJチャンピオンシップで起きたまさかの一発退場
そのエスパルス時代で忘れられない瞬間がある。
「タイトルを獲ったり、楽しい思い出はあるんですけど、多分自分の中で一番辛いことが、一番印象に残ってますね。それがあの退場。何で僕、そういうふうになったんだ、みたいな」
1999年Jリーグチャンピオンシップでのことだ。2ndステージ王者の清水は、1stステージ王者のジュビロ磐田に対し、アウェーでの第1戦に1対2で敗れ、第2戦はホームで2対1と勝利。合計スコアが同点となり、もつれ込んだPK戦によって、年間優勝を逃した。その第2戦で、アレックスは前半35分に相手選手を蹴り、一発退場となったのだ。
「エスパルスはまだ、Jリーグで優勝したことなかったんですよ。それが一番近いところまで来て、自分が優勝する力を与えたいと思ったんです。もう本当にアレックスの年だったし、自信があった。
でも、優勝できなかったのは、僕のせいだったと思います。自分が難しい展開にした。人生でやり残したことがあるかって言ったら、それですね。もう一回、昔に戻ってやり直したいです」
チームメイトたちとも話した。
「多分、僕を殺したかったでしょうね(笑)。僕はファウルで止められるほうの選手だったんで『アレ(※アレックスの愛称)、馬鹿だったね』『向こうがやることを、こっちがやっちゃったね』って。『アレがいたから、あそこまで行けた』とも言ってくれたんだけど、自分がやったことは、自分が一番分かっているので、自分で自分が許せない。
若かったのもあるかもしれない。でも、それでもっと気持ちが強くなって、試合の流れを理解できる、余裕のある選手になったので、自分のキャリアにとって、必要だったのかもしれないし、成長につながった、とは思いますね」
7年間の清水でのプレーを経て、2004年には浦和レッズに移籍した。
「浦和はそれまで、タイトルに絡むチームではなかったんですよ。ちょうど僕が行った頃からチーム力がすごく上がって。(小野)伸二がいたり、(鈴木)啓太、長谷部(誠)、(田中マルクス)闘莉王、田中達也、あと外国人のネネ、(ロブソン・)ポンテ、ワシントン、その前はエメルソンとか、すごい選手たちがいっぱいいて。強くなったら、サポーターもバーっとついてきて、すごかったんですよね、あの頃。ずっと優勝したり、優勝を争っていた。そこに貢献できて、すごくいい6年間だったなと思う」
次に行ったのが名古屋グランパス。アレックスはプロ13年目と、経験も増していた。
「浦和での最後の1年は、怪我をしたのと、その時はフィンケ監督に、若い選手にチャンスを与えるっていう考えもあって、ちゃんとサッカーができない悔しさがあった。
だから、ストイコビッチ監督が呼んでくれた時には、すごくありがたかったし、もうベテランとしての期待だったと思うけど、それに応えられるように頑張って、違う意味で、自分を成長させられた時期だったと思うんですよね。
すぐに試合に絡めて、アジアチャンピオンズリーグにも出て、次の年、チームは初めて日本一になれた。あの時期の名古屋には、闘莉王、楢崎(正剛)、玉田(圭司)とか、いい選手がいっぱいいて、すごく楽しかったですね。」
アレックスは2012年まで名古屋で過ごし、その後は栃木SCとFC岐阜でそれぞれ1年間プレーし、ブラジルに帰国した。続く第2回では、その彼の日本代表における、今だから話せる思い出を綴る。
[プロフィール]
三都主アレサンドロ(さんとす・あれさんどろ)/1977年7月20日生まれ、ブラジル出身。清水エスパルス―浦和レッズ―レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)―名古屋グランパス―栃木SC―FC岐阜―マリンガ(ブラジル)―グレミオ・マリンガ(ブラジル)―PSTC(ブラジル)。鋭い突破力と正確なキックを持ち味とする攻撃的アタッカーとして活躍。2001年に日本へ帰化。日本代表メンバーとして2004年のアジアカップ優勝、02年に日韓W杯ベスト16進出に貢献した。
藤原清美
ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。