後輩が驚き「オレすげえだろみたいな雰囲気ない」 50歳で引退…伊東輝悦が尊敬される理由【コラム】
引退発表記者会見に登壇した際の第一声は「すげえ、めっちゃ人いる」だった
10月31日、32年間のプロ生活にピリオドを打つことを発表したアスルクラロ沼津のMF伊東輝悦。「自然体」という言葉がこれほど似合う選手はいない。
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日本が28年ぶりに出場した1996年のアトランタ五輪。初戦のブラジル戦で決勝ゴールを決め、“マイアミの奇跡”の立役者となったことは、伊東の名をもっとも世に知らしめた功績だ。さらに日本がワールドカップに初出場した1998年のフランス大会でも日本代表に選出。その後のトルシエ・ジャパンでも指揮官の信頼をつかみ、コンスタントに招集された。
地元クラブである清水エスパルスには、東海大学第一高校(現東海大翔洋高)を卒業してJリーグ初年度の1993年に加入し、18年間在籍してJ1リーグ483試合に出場。“鉄人”という異名も得て、ダントツ1位となるクラブの最多出場記録として今も残っている。
その後は甲府、長野、秋田、沼津でプレーを続け、沼津に加入した時点で42歳。出場機会は激減したが、「(練習でも)サッカーをやっていて楽しいし、身体も何とか動いたので」と現役生活を続けてきた。そして50歳になる今年、体力的な厳しさを感じつつある中で彼自身は開幕前から引退を考えていて、このタイミングで発表に至ったという。
引退発表記者会見に登壇した際の第一声は、「すげえ、めっちゃ人いる」だった。彼の功績を考えればメディアの多さは当然だったが、本人は素直に驚き、喜んでいた。
50歳という節目に対する質問に対しては、「50歳までプレーできたことが本当に幸せだなとつくづく思います。その前にもやめるタイミングはあったと思うんですけど、50歳までプレーできたら面白いなというか、そんなおじさんがいてもいいんじゃないかみたいな思いはありました」と答えた。
その他の多くの質問に対しても、彼らしい力の抜けた言葉で会場の笑いを誘うシーンもしばしば。口数は多くないが、けっして気難しいわけではなく、尊大な雰囲気など一切見せない。引退会見でも「テルらしさ」は全く変わっていなかった。
筆者は長谷川健太監督時代(2005年~)から清水を厚く取材しているが、当時の伊東は長谷川監督の新しい戦術を誰よりも早く理解し、欠かせない主力として定着。30歳を越えていたが、ボランチとしてボールの回収力が際立ち、第2の全盛期と言える活躍を見せていた。
2005年に清水ユースから昇格し、偉大な先輩の背中を見ながら多くを学んだ枝村匠馬(現藤枝MYFCコーチ)は、当時のことをこう振り返る。
「自分が2年目のときにボランチを組ませてもらって、守備は全部やるから攻撃に専念していいよぐらいのことを言ってくれて、好きにやらせてもらったおかげで9点取れたんですよ。テルさんはとにかく守備範囲と洞察力がすごくて、中盤の底で全部ボールを回収してくれて、すごく学べたし成長させてもらいました」
さらにプレーだけでなく人間性の面でも大きな影響を受けたとつけ加える。
「代表にも入ってあんなすごい人なのに、オレすげえだろみたいな雰囲気や態度が全くなくて、本当に謙虚でひたむきで。上も下もないよという立ち振る舞いがすごく尊敬できました」
筆者も全く同感で、30代前半ながらどこか達観したような雰囲気を漂わせていたことが非常に印象的だった。悟りを得たかのように何にも惑わされることなく純粋にプレーを楽しむ姿が際立ち、出場機会が減ることがあっても態度や雰囲気が変わることは一切なく、淡々とサッカーに集中していた。
その印象の裏付けになりそうな言葉が、引退会見でもあった。長いプロキャリアの中で、自身のサッカー観に変化があった時期があったかという質問に対する答えだった。
「若い頃は、ミスしちゃいけないじゃないけど、完璧にプレーしようみたいに思ってたところが少しあったんですけど、サッカーってそういうもんじゃないし、完璧が何かといったら分からないし……。とくに精神状態が整ってなかったのは、日本代表に入っていた頃ですかね。自分をよく見せたい、大きく見せたいじゃないけど、そういう思いが強く働きすぎて、自分らしさがなかったなというのは思いました。その後からは、自分らしくありたいな、自分のできることを精一杯やりたいなと思ってやるようになりました。そういう変化もあったから長くプレーができたのかなと思うし、自分らしくやってきたら、こんなんなっちゃいました(笑)」
今思えば、長谷川監督時代の伊東は、まさにその境地に至っていたと合点がいく。アトランタ五輪当時は21歳。若くしてさまざまな経験を積み、ワールドカップでは出られなかった悔しさも味わい、Jリーグでも歓喜と無念を繰り返してきた。生来穏やかな性格だが、激動の中で気持ちが揺れ動いたこと、迷いが生じたことは想像に難くない。それらを乗り越えて“自分らしさ”とは何かに気づいたことによって、それまで以上に純粋にサッカーを楽しめるようになった。
そうしたサッカーに対する姿勢や周囲に対する振る舞いは、沼津に来てからの8年間でも一切変わっていない。だからこそ、沼津の後輩選手たちも引退会見の彼の言葉を聞きたいと自然に集まってきた。
その前で「小さい頃は引っ込み思案でシャイなところもあったけど、サッカーをきっかけに多くの友人ができたし、多くのことを経験できたので、サッカーに出会えて本当に良かったなと思います」と語った伊東。50代まで現役を続けた(ている)先駆者として三浦知良と中山雅史がいるが、彼ら以上に自然体で小学校1年からサッカーを愛し続け、楽しみ続けてきた。
「もう十分すぎるほどプレーしたと思います」と語ったときの清々しい顔が、本当に幸せなサッカー人生だったことを何よりも物語っていた。
(前島芳雄 / Yoshio Maeshima)
前島芳雄
まえしま・よしお/静岡県出身。スポーツ専門誌の編集者を経て、95年からフリーのスポーツライターに。現在は地元の藤枝市に拠点を置き、清水エスパルス、藤枝MYFC、ジュビロ磐田など静岡県内のサッカーチームを中心に取材。選手の特徴やチーム戦術をわかりやすく分析・解説することも得意分野のひとつ。