最も悲しいゴールの瞬間 降格で浦和が涙も…なぜか喜んだルーキーの“勘違い”秘話【コラム】

1999年当時の池田学【写真:Getty Images】
1999年当時の池田学【写真:Getty Images】

99年J1リーグ第2ステージ最終戦、延長Vゴールも浦和は90分終了時点で降格がすでに確定

「残り5試合はすべてがトーナメント戦の決勝と同じだ。1つも負けられないファイナル・ファイブが始まる」

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 1999年のリーグ戦が5週間の中断期間に入った初秋、浦和レッズのア・デモス新監督が囲み取材で発したお決まりの言葉だ。年間15位という、のっぴきならない状況に追い込まれ、J1残留への危機感と切迫感がにじんでいた。

 Jリーグは7年目を迎えたこの年、J1下位2チームとJ2上位2チームによる自動入れ替え制を導入。浦和は16チーム中、第1ステージが13位で第2ステージが10節を終えて14位。“ファイナル・ファイブ”を迎える段階で、年間総合15位の降格圏をさまよっていた。

 ア・デモス監督は、成績不振により解任された原博実監督の後任として着任したオランダ人だ。

 10月30日に“ファイナル・ファイブ”が幕を開け、初戦はヴィッセル神戸に0-2で完敗。次のジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド千葉)には1-0で競り勝ったが、年間15位のままだ。

 3戦目はベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)を2-0で倒し、市原が敗れたことで年間14位と降格圏を脱出する。ここで平塚のJ2陥落が決まり、もう1チームは浦和、市原、アビスパ福岡に絞られた。続くヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)には残り2分の失点で引き分けてしまい、市原に勝ち点1差まで迫られる。

 命運が決する最終戦は11月27日。浦和駒場スタジアムはこの年最多の2万42人の観客が集結した。

 総勝ち点26で年間14位の浦和はサンフレッチェ広島、同25で15位の市原はガンバ大阪、同28で13位の福岡は横浜F・マリノスと顔を合わせた。

 目まぐるしく陣形に手を加えてきたア・デモス監督だが、“ファイナル・ファイブ”に入ると4-4-2を継続。センターバックは6月に横浜FMから期限付き移籍の路木龍次、10月に加入した現役ウルグアイ代表フェルナンド・ピクンで編成した。

 ところがピクンがV川崎戦の終盤に故障し、肝心の広島戦は新人DF池田学が起用された。

 池田は静岡・清水商業高(現清水桜が丘)が、第77回全国高校サッカー選手権に4年ぶりの出場を果たした時の主将。浦和の高校出の新人としては田畑昭宏、永井雄一郎、小野伸二に次いで開幕戦に先発した速さ、強さ、高さを兼ね備えた上半身が鋼のような183センチの門番だ。

 3月に世界ユース選手権(現U-20ワールドカップ)、5月にはシドニー五輪の各日本代表候補にも選ばれた才能豊かな選手だった。

 しかし“ファイナル・ファイブ”はずっと控えで、ピクンが負傷したV川崎戦の後半29分から緊急出場しただけ。それでもア・デモス監督は、アドレナリンが大量流出するような緊迫の最終決戦に先発要員として送り込んだ。

 当時のルールでは90分で決着しなかった場合、前後半15分の延長戦を実施。勝ち点は90分勝ちが3で延長勝ちが2、引き分け1という規定だ。また「延長Vゴール」方式が採用されていたため、延長戦ではどちらかが勝ち越しゴールを挙げた時点で試合終了となる。

 前半11分、小野が頭で折り返したボールをアイトール・ベギリスタインが狙い、永井はこの1分後に小野の左クロスを上手に合わせたが得点を奪えない。同43分には城定信次が右フリーキックのこぼれ球から中距離弾を放ったが、いずれも枠を捕らえ切れず、前半を無得点で折り返した。

 後半途中から3人のFWを投入。同18分に出番のきた盛田剛平は19、37、40分にヘッドと左足、右足で決定的なシュートをお見舞いしたが決められなかった。

 チーム得点王の福田正博が登場した後半36分から、前線に4人を配置し捨て身の総攻撃に打って出た。しかし崩しの形には持ち込んだものの、決定力を欠いて0-0でタイムアップの笛が鳴る。降格が決まった。

 勝った市原は勝ち点28の得失点差-15、敗れた福岡は28の-18。浦和は延長で勝っても勝ち点28、得失点差が-19で福岡に届かない。

 スタジアムにいる誰もがこの事実を知っていた。小野は「延長に入る前に分かっていたので、とにかく早く勝って試合を終わらせたかった」と当時こう話した。

事情を把握していなかった池田は、福田のVゴールの瞬間喜びを露わに

 延長後半1分、小野の左ショートコーナーからゼリコ・ペトロビッチが広島守備陣の背後に絶品パスを入れると、福田が右足を目いっぱい伸ばし左隅にVゴールを蹴り込んだ。

 次の瞬間、仰天させられる情景が広がる。えびす顔の池田が消沈する福田に後ろから抱き着いた。脱力状態のエースは、沈うつな表情で池田の手を払いのけた。

 号泣する福田を見て、「もしかしてこれは……」と池田は何とも言えない感情に襲われたそうだ。

「勝てば90分でも延長でも残留だと聞いていた。監督からも『勝てばいい、勝てばいいんだぞ』と言われていたんです。あのコーナーキックにしても、自分が決めてやるぞって意欲満々で上がりました。延長で勝っても駄目だなんて全く知りませんから、決勝点を取ってヒーローになってやろう、みたいなイメージでゴール前に行ったんですよ」

 90分が終わると、福田はうつむきながら何度か顔を横に振った。涙ぐむペトロビッチ、山田暢久は顔をしかめ、永井はひざを折った……。

 ベンチの雰囲気やチームメートの表情、スタジアムの様子など何か異様な空気を察しなかったのか?

 池田は後年、「延長に入る前、『あれ?』って感じは少しありましたけど、変に気を回すより勝てばいいんだ、ということしか頭になかったんだと思います」と述懐する。

 新人に過度な重圧を掛けないよう、池田には知らせなかったという話も聞いたが、真実は定かでない。

 試合前から池田の耳には、90分勝ちとかVゴールという言葉は入ってこなかったという。「それを言ったら弱気になるので、あえて口にしなかったのかもしれませんが、実際のところは分かりません」と語る。

 はっきり記憶していることもある。延長のピッチに入る前、ペトロビッチの尻をたたき、「さあ行こうぜ」と気合を入れた。振り返ると顔から火が出る思いがするそうだ。

「ペトロさんの中ではすごくプロフェッショナルに映ったかもしれない。『お前、この状況でまだ頑張ろうって言えるのか』みたいな。反対に僕の方は『何でそんなに元気がないの?  頑張りましょう』って感じの声掛けをしてしまった気がする。全く、恥ずかしながらですよ」

 池田にとってあの試合は一世一代の大勝負だった。勝つことだけに神経をすり減らしたが故、奇っ怪な振る舞いに及んだ。しかし19歳とはいえプロなのだから、情勢を理解していなかったのはいただけない。後になって池田は、戯曲のような行為が骨身に応えた。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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