リーグ戦出場0で浦和去った問題児 在籍2か月半…監督へ不満駄々洩れ、衝撃“事件簿”【コラム】

かつて在籍もリーグ戦出場0で浦和を去ったエジムンド【写真:Getty Images】
かつて在籍もリーグ戦出場0で浦和を去ったエジムンド【写真:Getty Images】

エジムンドが東京Vで活躍し浦和へ、一方で監督やチームへの不満を爆発

 浦和レッズのそれは貧相極まりない平屋建てで、“クラブハウス”という言葉の響きから浮かび上がるモダンな代物ではない。大勢が一斉にシャワーを使うと水量が極端に弱くなり、屋根の所々で雨漏りもした。もちろん記者の作業場など気の利いたものはなかった。

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 まさかこんな環境に嫌気が差し、わずか2か月半で逐電したわけでもなかろうが……。

 2003年3月18日。チームの練習を見学し、ハンス・オフト監督や主将の内舘秀樹らに話を聞いたあと、リーグ開幕に向けた連載企画のため、新加入のエジムンドに少し長めのインタビューをした。“クラブハウス”を入ってすぐ左には、さいたま市の事務所として設けられた応接間があり、ここで聞いた話の大半は仰天させられるものばかりだった。

 この年は1997年以来、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)がリーグ戦に先駆けて開催され、すでに予選リーグ2試合を終え、浦和はジュビロ磐田と東京ヴェルディに連敗していた。

 エジムンドの選手としてのキャリアはとても輝かしい。

 浦和加入時の経歴では、ワールドカップ・フランス大会などブラジル代表の国際Aマッチ37試合で9得点。パルメイラスやバスコ・ダ・ガマというブラジルを代表するクラブで得点を量産し、イタリアのフィオレンティーナでもプレーした。2001年10月に緊急加入した東京Vでは、チームをJ2陥落の危機から救い、翌年はリーグ26試合で16点、ナビスコ杯6試合で5得点の活躍だった。

 ところが性格は怖いほど直情径行型で、人としては厄介者と言えた。

 リオのカーニバルに興じて複数のクラブで試合放棄。監督への暴言や同僚への暴力、自動車事故で3人死なせたこともあった。

 そんなお騒がせ男が2003年に浦和へやって来た。初タイトルを狙う就任2年目のオフト監督は、「FWでもMFでも高いレベルでやれるからオプションが増えた。去年は質の高いラストパスがFWに入らなかったので、MFでの起用ならそこに期待したい。いろんなプレーのできるエジムンドが加わることで、攻撃の質は格段に上がる」とニンマリしたものだ。

 2002年のJOMOオールスター戦(1993年から07年まで開催していた)。東軍の一員としてエジムンドとともに後半から出場し、決勝点を挙げてMVPを獲得したエメルソンは、「あんなすごい選手と一緒にやれて嬉しい。いいパスが出てくるから、たくさん点を取れそうだ」と喜んだ。

 2月17日から始まった豪州・シドニー合宿に3日遅れで合流したエジムンドは、当地の強豪マルコーニ・スタリオンズを2-1と下した練習試合で1得点1アシスト。永井雄一郎と2トップを形成し、旺盛にシュートを放ってゲームも組み立てた。「まだ選手の名前も覚えていないけど、自分には初めての実戦形式で彼らの特長を知るいい機会になった。若いチームなので練習を重ねればもっと強くなる。俺も気合を入れてやっていくよ」と意気軒高だった。

 3月8日に磐田とのナビスコ杯が開幕。永井と2トップを組んだエジムンドは前半9分、32分、後半1分に決定打を放ったが、GK山本浩正の好守などもあって得点できなかった。0-2で敗れた試合後、「ブラジルでは週に2~3回は紅白戦をやるのに、ちっともやらないからFW同士のコンビネーションが全然駄目だった」と早くも練習法に不満を漏らした。

 続く東京V戦はトップ下に入り、エメルソンと永井の前線を動かしたが、2試合連続の無得点で完敗。するとまたしても「紅白戦をやらないと上手くいくはずがない」とオフト監督の手法に異議を唱えた。

リーグ開幕前のインタビューであふれ出ていたチームへの不満

 かの応接間で取材が始まった。現在の状態やチームの完成度、やりたいポジションや目標など、いろんな質問をぶつけたのだが、いくつかまともに回答しただけで、次から次へと指揮官とクラブへの苦情や批判、愚痴を並べ立てた。

「今の形では不安がある。もっと細かい戦術をやらないといけない」「選手の能力を引き出すための指導者がここにはいない」「選手の特長に合ったシステムを考えるべきだ」「もっと自分の周りに人数をかけてほしい」「今のやり方では攻守とも上手くいかない」「期待しているのなら僕の意見を聞くはずなのに、大事にしていない証拠だ」「家族は7月まで日本に来られない。これじゃ仕事も上手くいかない。約束を守ってくれない。すべてに不満だらけだ」

 まだ延々と続くのだが、極めつけの言葉がこれだった。

「もう10回以上、クラブの偉い人と話して意見を言った。チームが上手くいくため、クラブはどうすればいいのか考えてくれればいい。その答えを待っているだけだ」

 自分の主張と監督の考えは、どちらが正しいのか。白黒つけてほしいと申し入れたのだ。俺を取るのか監督なのか、とも解釈できる。

 腹の底は分からない。本当に戦術や練習法が気に食わなかったのか、家族の元に帰りたかったのか、このあと加入したバスコ・ダ・ガマからオファーがあったのか……。

 のっぴきならぬ事態だけに、クラブの森孝慈ゼネラルマネジャー(GM)と中村修三強化部長に当たった。GMの森氏は「情報は入っている。本人とも話しているが、どうなるか分からない」と困惑し、中村部長も「エメルソンの面倒も見てもらうつもりだったのに」と弱り切っていた。

 3月24日に退団の意向を伝えたエジムンドは、4日後にブラジルへ帰ってしまった。

 オフト監督は「立てた目標(5位以内)を失った。一刻も早く同等の選手を見つけ、チームを立て直さないといけない。それには1~2か月ほどかかる」と消沈した。

 浦和にとっての2003年は多くの話題をさらったシーズンだ。ナビスコ杯初優勝、エメルソンのJリーグMVP、福田正博の引退試合、オフト監督の辞任表明、クラブハウスの大改修……。エジムンドの一件も負のトピックとしてクラブ史に残る。

 私もとばっちりを食った1人だ。応接間でのインタビューから採用できた言葉などなく、記事は極めて平凡な内容になった。そればかりかリーグ開幕に合わせた企画だというのに、リーグ戦のピッチには1度も立たなかったのだから、何ともはかない原稿を書いたものだ。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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