Jリーグ“問題児”300万円の制裁金「値切ってきたよ」 年間MVP受賞で発覚「満額払ってないの?」【コラム】

かつて浦和に所属したエメルソン【写真:Getty Images】
かつて浦和に所属したエメルソン【写真:Getty Images】

ファウルでしか止められない…浦和エメルソンの衝撃の数々

 その日、浦和駒場スタジアムに集まった観客は異次元のスピードに驚嘆し、2人が退場に追い込まれたサンフレッチェ広島の選手は、あまりの韋駄天ぶりに腰を抜かした。

 2001年8月25日のJリーグ第2ステージ第3節。浦和レッズに加入して間もないブラジル人FWエメルソンは、後半39分にJ1初ゴールとなる同点弾を蹴り込んだ。

 人々はしかし、これに先んじて目撃した衝撃の出来事が頭から離れず、得点よりもむしろそちらの余韻に浸っていた。

 中列後方でエメルソンの動向を監視していたボランチの沢田謙太郎が、後半26分に2度目の警告で退場。7分後には門番の中央DFオレグも、太田潔主審から2枚目のイエローカードを突き付けられた。警告理由はいずれもエメルソンへのラフプレーで、この男のスピードは反則でしか止められなかった。

 試合後は2歳になるという長男をあやしながら、茶目っ気たっぷりの顔付きで取材に応じた。クラブの発表によると1981年9月6日生まれの19歳だから、第一子は17歳の時に誕生。足も速いが手もめっぽう早いと変に感心したものだが……。

プレーも卓越していたが、罪過も多数

 2000年にJ2北海道コンサドーレ札幌に加入し34試合で31点を挙げ、続いて半年在籍したJ2川崎フロンターレでは18試合で19得点。01年8月1日に浦和へ移籍すると、13試合に出場して7点を記録した。

 爆発的なスピードと正確なボール操作、高い決定力に強いキック力。身のこなしもしなやかで、ストライカーの必須条件をすべて備えた希代のFWは2年目以降、大きな手柄を立てながら罪過も重ねていく。

 02年はJリーグのベストイレブンに初選出され、03年はリーグ戦18得点のほかナビスコカップ(現在のルヴァンカップ)9試合で最多の8点を挙げた。鹿島アントラーズとの決勝では、右側頭部を裂傷しながら2点を奪ってフル出場し、クラブ初タイトルに尽力。浦和で最初のJリーグ最優秀選手賞に輝いた。04年は27点でJリーグ得点王を獲得し、第2ステージ優勝にも力を貸す八面六臂の活躍ぶり。

 一方で練習への遅刻、早退、欠席の常習犯でもあった。「妻の身体の具合が悪くて病院に連れて行った」ならまだしも、「家のゴキブリ退治に時間が掛かった」とか「電柱が倒れて車が出せなかった」など、疑わしい言い訳を並べること枚挙にいとまがなかった。練習場に現れても「ここが痛い、あそこが痛い」と言って、別メニューや早退も少なくなかった。

 ボールを持ったら遮二無二進軍し、複数のマーカーに囲まれても突破を試みた。ある主力選手は「サポートに回っても知らん顔で、無理な勝負ばかりしている」と独善的な姿に嫌悪感を示すことも。

 感情を制御できず無用な反則を重ね、在籍4年で警告38回、1試合2度の警告による退場が3回、一発が2回。出場停止は14試合に及んだ。

 年齢詐称も後年発覚し、1978年12月6日が正しい生年月日で3歳サバを読んでいた。

チームへの合流遅れが3年連続…クラブからは300万円の罰金で制裁も

 同僚や指導陣、強化担当らの不興を買った極めつけが、3年続けて始動日に姿を見せなかったことだ。

 2003年は1月23日が練習開始日だったが、「パスポート更新とビザ取得に時間が掛かった」と言い、シドニー合宿にも参加せず、合流はナビスコ杯開幕3日前の3月5日だ。04年は8日遅れでの来日。1月28日が始動日だった05年は2月17日に来日し、すでに始まっていた熊本合宿も「妻の健康状態が良くない」との理由で合流しなかった。

 さすがに03年の大遅刻については、クラブもハンス・オフト監督も「準備期間にいないのは、チームづくりで大きなリスクになった」と業を煮やし、300万円の制裁金を科した。ところが森孝慈ゼネラルマネジャー(GM)は「半分になりませんか、と値切ってきたよ」と呆れ顔で苦笑。04年も罰金300万円のお灸をすえた。

 しかし03年は駄々をこねたエメルソンの言い分を受け入れ、おまけしたようなのだ。

 この年、悪童はJリーグ最優秀選手賞で200万円、ベストイレブンで100万円、計300万円の賞金をゲット。12月に横浜市であった年間表彰式の囲み取材が終わった後、「これで罰金がチャラになったじゃないか」と私が仕向けると「チャラじゃないよ。プラスだよ」とニンマリし、「満額払ってないの?」と聞いたら回答はせず、いたずらっ子のように顔をほころばせながら去っていった。まったくもって悪びれることのない男だった。

 オフト監督は「パスポートもビザもきちんとやろうとすれば事前に取れたはずだ。ビザは国にもよるが普通は1日で取れる。私は腹を立てている」とお冠だった。だが森GMは「リオのカーニバル最中で飛行機が満席という不可抗力も働き、酌量の余地はある」と述べていた。

 浦和は鷹揚なクラブであった。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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