J誕生の裏で「観客減って終わり」の声 プロ化失敗を阻止…初代チェアマン涙に感じた31年の歴史【コラム】
31年前の国立で…川淵氏の夢が詰まった「Jリーグ開会宣言」
川淵三郎初代チェアマンの涙に、31年の歴史を感じた。2月25日、国立競技場で行われた東京ヴェルディと横浜F・マリノスの今季開幕戦は、Jリーグがスタートした93年5月15日と同じ顔合わせ。31年前に同じ国立で行われた川淵氏の「Jリーグ開会宣言」が大型スクリーンで流れた。直後の挨拶で感極まり、言葉を詰まらせた。
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「開会宣言。スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン、川淵三郎」。これが、開会宣言全文だ。
その短さとともに特徴的だったのが、あえて「サッカーを愛する」とせずに「スポーツを愛する」としたこと。Jリーグが目指すのはサッカーのプロ化だけではない。すべてのスポーツを通して、日本にスポーツ文化が根付くことことこそがJリーグの目標であり「大きな夢」だった。
華々しくスタートしたJリーグだったが、将来的な保証は何もなかった。「ブームが去ったら観客が減って終わり」「2、3年経てば資金が枯渇し、企業も離れる」。そんな声も決して少なくはなかった。
選手たちも不安も抱えていた。31年前の開幕戦にマリノスの主将として出場し、今回もGKコーチとして試合に臨んだ松永成立氏は「また見たいと思うような試合をしないと、プロ化が失敗すると思っていた。必死でした」と話す。実際にチームの中心であってもプロにならず、社員のままプレーする選手もいたほどだ。
サッカーでさえそんな状態だったが、川淵氏は「開会宣言」で壮大な夢を語った。選手時代、西ドイツで感銘を受けたスポーツシューレ(総合型スポーツクラブ)。サッカーを中心に複数の競技施設があり、そこに老若男女が集ってスポーツを楽しむ。企業スポーツから脱却し、地域でクラブを支える。そんな姿を夢見ていた。
ブームが去って停滞期もあったが、Jリーグは定着した。スタート時の10クラブがJ1からJ3までの60クラブに増え、Jクラブを持たないのは三重、高知など6県だけになった。スタジアム環境も激変した。2002年ワールドカップもあって専用スタジアムも急増。今年は広島にエディオンピースウイング広島が誕生、秋には長崎スタジアムもオープンする。
Jリーグが目指した「地域密着」はほかの競技にも影響
Jリーグ発足の尽力した川淵氏はその後、バスケットボールの改革にも着手。Bリーグ発足で人気も上昇し、代表チームの強化も進んだ。男子の代表は東京Vと横浜FMの開幕戦と時を同じくして行われたアジアカップ予選で中国から主要大会88年ぶりの勝利。有明アリーナは1万人近いファンで満員になった。
Jリーグが目指した「地域密着」はほかの競技にも影響を与えている。プロ野球は日本ハムが北海道に移転し、仙台には東北楽天が誕生した。プロ化を目指すほかの競技も「地域」を重視。各地で試合を行うだけでなく、普及活動にも力を入れている。
川淵氏が挨拶で「優等生」と言った東京Vのように、他競技を取り入れて総合スポーツクラブを目指すJクラブもある。同じ地域で活動するクラブ同士が提携し、スポーツを盛り上げる活動も盛んだ。
川淵氏は31年前の開会宣言で言った「大きな夢」を、挨拶で「老若男女誰もが自分の好きなスポーツを楽しめるクラブを日本中に作っていこうという夢」と説明した。まだまだ実現には時間がかかるかもしれないが、少しずつ近づいてはいる。
日本のスポーツの風景は、確実に変わってきている。環境が整い、スポーツはより身近になった。次の30年、さらにその先に向けて、「サッカー」だけでなく「スポーツ」のために、これからもJリーグが果たす役割は大きい。
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。