板倉滉に何が起こったのか? 失点関与のパフォーマンス背景と粗削りな発言のワケ【コラム】
「代表選手としてピッチに立つ資格はない」発言の真意を探る
「足に魂込めました」の名言で知られる1992年アジアカップ(広島)での勝利、グループリーグ最終戦、97年11月16日のジョホールバルの歓喜、ジーコジャパン時代の2005年3月の10万人のアザディスタジアムでの敗戦…。日本サッカーの節目に対戦しているのが強豪・イランだ。
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2月3日のアジアカップ2023(カタール)準々決勝の激突も「事実上の決勝」と言われるほどの大一番だった。多くの報道陣や関係者は「同じ中2日だが、イランの方がラウンド16でシリアとPK戦まで戦っていて、消耗度が激しい。エースの1人であるメフディ・タレミ(FCポルト)も出場停止で、明らかに日本の方が有利」と見ており、森保一監督も選手たちも自信を持って挑んだはずだった。
今回の日本はラウンド16・バーレーン戦からスタメンを3人変更。攻撃力の高い相手右サイドバック(SB)ラミン・レザイアンを封じるため、前田大然(セルティック)を左FWに抜擢。その前に位置するアリレザ・ジャハンバフシュを止めるべく、伊藤洋輝(シュツットガルト)を置き、左サイドで優位な状況を作ろうと試みたのだろう。
狙いは前半ある程度、上手く行っていた。トップ下の久保建英(レアル・ソシエダ)と左ボランチの守田英正(スポルティング)が左サイドに開き、空いたポジションを有効活用しながら攻撃の起点を作っていたからだ。前半28分の守田の先制点もその形から生まれた。背番号5が上田綺世(フェイエノールト)にタテパスを入れ、リターンを受け、ドリブルで前進。DFに引っかけられながら3人をかわして右足を一閃。待望の先制点を奪い、4強入りに近づいたのだ。
だが、すでに早い時間帯から「明らかに本調子ではない」と感じさせた選手がいた。それがDFラインの要の1人・板倉滉(ボルシアMG)。先制点直前にモハマド・モヘビを倒してイエローを受けたことも心理的影響が大きかっただろうが、一瞬の動きやサルダル・アズムン(ASローマ)ら相手攻撃陣への対応含めて、少し遅いという印象は拭えなかった。
「本当に申し訳ない気持ち」後半顕著に表れた不調の波
より顕著になったのが後半。イランはリスタート、ロングスロー、ロングボールの蹴り込みを多用。それでリズムを掴むと、後半10分にアズムンの見事な反転からのスルーパスにモヘビが抜け出しゴール。同点に追い付かれたのだ。この時も板倉がモヘビに背後を取られ、最終的にはフィニッシュに持ち込まれてしまった。
この8分後にアズムンのゴールがオフサイドディレイで取り消されたシーンでも、アズムンに飛び込んだ板倉が毎熊晟矢(セレッソ大阪)とともにアッサリとかわされた。22年カタールW杯やボルシアMGの彼は高度な対応力と安定感を誇っていたが、今回は浮足立っている印象が拭えない。そこから相手が一方的に蹴り込んでくると、彼らセンターバック(CB)陣は跳ね返すのがやっとという苦境に追い込まれる。
こうした負の連鎖が終了間際のPK献上につながってしまう。右SBレザイアンの対角線の長いボールをモヘビがヘッドで落とした瞬間、冨安と板倉に連係ミスが出てしまい、前線に上がっていたホセイン・カナアニの飛び出しを板倉が後ろからタックル。これがPKと判定され、ジャハンバフシュに決められ、万事休す。「史上最強」の呼び声もむなしく、26年北中米W杯優勝を狙っているはずの日本はアジア8強止まりという失態を犯してしまったのである。
「本当に申し訳ない気持ちですね。チームメートもそうですし、日本から応援してくれてる人も沢山いたので。ホントに今日の敗因は自分にあると思うし、自分がもっといいパフォーマンスをすれば良かった」とタイムアップの笛を聞いた瞬間、森保一監督の円陣にも参加せずに一目散にロッカーに引き上げた板倉はこれまで見せたことのない荒々しい感情が渦巻いたことを明かした。
「(2失点目の場面では)まず1個前の時点でクリアできれば良かった。それに、後ろから走ってきた相手がちゃんと見えてなかった。そこの視野の狭さを反省しないといけないですね。もちろんトミからの声は聞こえましたけど、後ろの状況を自分は把握できていなかった。もっとちゃんとやらないといけなかった」と本人も反省しきりだったのだ。
優しい性格が仇となる可能性も指摘
オフサイドで取り消されたアズムンの幻のゴールも含めると、3点分に絡んでしまった板倉。確かに19年コパアメリカ(ブラジル)での代表デビュー以来、ここまで不安定なパフォーマンスを見せたのは初めてだ。今大会に挑むに当たっては、昨年10月末に左足首の遊離軟骨を手術。2か月半も実戦から遠ざかる中、いきなりのビッグトーナメントということで、試合勘の不足があったのは否めない事実だろう。
しかも大会突入後に体調不良に陥り、インドネシア戦でベンチ外に。そこから回復傾向にあったものの、今度はバーレーン戦で左足を打撲。数々の不安を抱えるなかでのイラン戦出場だったのだ。
「ピッチに入ったら正直、そんなの関係ない」と本人は闘志を奮い立たせたが、視野が狭くなる、判断が遅れるといった現実に直面。身体が思うように動かなかったのだろう。
「自分自身、ここまでゲームを壊すっていうのは今までなかった。それを勝たないといけないこの状況でやってしまった。やっぱり自分の力のなさが出たなと思います。
局面で全然戦えてなかったし、最後のところも、その前の失点も、全部自分のところから。非常に責任を感じます。あんなパフォーマンスをしていたら、代表選手としてピッチに立つ資格はないと思います」
日頃、温厚な板倉がここまでストレートな表現をするのも代表キャリア初。これだけ大きな挫折をどう乗り越えていくのか。板倉にとっては絶対に忘れてはならない苦い敗戦になったと言っていい。
ここからの彼ができるのは、まず所属クラブに帰ってパフォーマンスを上げること。それに尽きる。アズムンやモヘビのような空中戦や競り合いに強いFWを完封できるようにプレーの幅を広げていくことも肝要だ。欧州や日本代表にいるとビルドアップや攻撃の起点となるパス出しなどがより強く求められがちだが、アジアの相手はデュエルやバトル、ヘディングの勝負といったより原点を突き詰めるような戦い方をしてくる。それを脳裏に焼き付けながら、板倉には一回りも二回りも飛躍してもらうしかない。
それと同時に、チームが混乱した時にアクションを起こせる統率力もより高めていきたいところ。彼は優しい性格ゆえに自己主張をすることがほとんどないが、冨安のようにもっと言うべきことは言っていい。むしろそうなるべきなのだ。
板倉が真のリーダーにならなければ、日本はここから這い上がれない。それくらいの気概を持って、彼には“ドーハの悲劇”から這い上がってほしいものである。
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。