33歳で“潔い”引退を決断、大津祐樹 ロンドン五輪の輝き、大怪我、横浜FMでの再生…駆け抜けた16年のプロ人生【コラム】

ロンドン五輪で活躍した大津祐樹【写真:Getty Images】
ロンドン五輪で活躍した大津祐樹【写真:Getty Images】

ロンドン五輪で絶大なインパクトを残す3ゴールをマーク

 日本が強豪スペインを初戦で撃破した2012年夏のロンドン五輪から間もなく12年が経過する。メダルこそ逃したものの、68年メキシコ五輪以降、日本が五輪の表彰台に最も近づいたチームが、同大会に挑んだ関塚隆監督率いるU-23日本代表だったのだ。

 このチームの最前線に位置したのが大津祐樹(ジュビロ磐田)だった。12月25日に今季限りで現役を退くことを正式発表したが、33歳という若さで引退はあまりにも早すぎるという印象が強かった。

 しかしながら、本人は「2023年にケガをしたことで100%の状態でプレーできなくなったしまった。契約は残っていたけど、ジュビロの将来のことを考えると、来季自分が給料を受け取るよりも、若い世代に使ってほしい。そういう希望をシーズン途中に伝えていました」とSNSで理由を明らかにした。

 どんな時も全力でサッカーと向き合ってきた男が、60~70%の力しか発揮できない現実と向き合った時、ピッチを離れた方がいいという決断に至るのも理解できる。そういった潔さが大津らしいところなのではないか。

 改めて彼の16年間のプロキャリアを振り返ってみると、2008年に東京・成立学園高校から柏レイソル入りした当時はサイドを切り裂く快足ドリブラーとして一世を風靡した。プロ2年目の2009年にはJ1リーグ33試合出場6ゴールをマーク。一気に主力の座を射止めることに成功した。

 若き成長株が最もギラギラしていたのが、2011年夏に赴いたボルシアMG時代だろう。

 筆者は2012年2月に現地でトレーニングを見たことがあるのだが、小雪が舞う中、屈強な大男たちと激しくボールを奪い合い、泥臭く貪欲にゴールを追い求める姿が脳裏に焼き付いて離れない。

「ドイツに来てから厳しさが全然違った。練習でシュート1本外しただけでみんな悔しがり方がすごいし、球際も激しい。自分も爪が割れたり、傷が増えるようになった。ケガしてもしょうがないってくらいの考えで1つ1つのプレーにこだわりを持ってやっています。そうしないと生き残れない」と彼は危機感を募らせていたのだ。

 それもそのはずだ。当時のボルシアMGにはドイツ代表で活躍したマルコ・ロイス(ドルトムント)やベネズエラ代表のスター、ファン・アランゴら実績ある面々が揃っており、大津はベンチ入りできるか否かのギリギリの戦いを強いられていたのだ。

 2011-12シーズンはリーグ3試合出場に終わったが、時折、出番が訪れるDFBポカールなどのカップ戦で必死にアピールを続け、チャンスを掴もうと取り組んでいた。

 ロンドン五輪代表としてアジア最終予選・本戦を戦っていたのもこの頃。彼はロンドン世代唯一の海外組として大きな期待を寄せられ、存在感を発揮した。

 関塚監督も「大津の成長ぶりは凄まじい」と目を輝かせたほど。五輪本大会では海外経験豊富な吉田麻也(LAギャラクシー)をオーバーエイジ枠で加えたものの、2012年のロンドン五輪は最前線の大津抜きに戦えなかったと言っても過言ではないだろう。

 点取り屋としての重責を彼はしっかりと果たす。スペイン戦で値千金に決勝弾をゲット。一気に存在感を知らしめた。さらに準々決勝エジプト戦、準決勝メキシコ戦でもゴール。大会3得点で、絶対的エースFWとしてチームを牽引したのである。

横浜FMでプレーの多彩さを身に着けた【写真:荒川祐史】
横浜FMでプレーの多彩さを身に着けた【写真:荒川祐史】

キャリアを狂わせた負傷、キャリアの幅を広げたポステコグルー監督との出会い

 絶大なインパクトを残した成長株だっただけに、さらなる飛躍が期待された。が、直後に赴いたオランダ1部VVVフェンロでの左足アキレス腱断裂が大きな足かせになってしまう。フェンロでは2年半を過ごしたが、後半はほぼリハビリ生活。本田圭佑や吉田のようにステップアップを思い描いていた本人にとっては誤算だったはずだ。

 それでも彼はサッカーへの情熱を持ち続けた。2015年には柏に復帰。3シーズンを過ごすと、2018年には横浜F・マリノスへ赴く。ここで出会ったのが、アンジェ・ポステコグルー監督だった。

 現在の横浜FMの土台を築いたオーストラリア人指揮官は大津をアウトサイドではなくインサイドで起用。よりゴールに近いポジションで技術や戦術眼を発揮することになったのだ。これによって彼はプレーの幅を広げ、より多彩な仕事ができるようになった。ドリブラーとして異彩を放った10代、FWや点取り屋として勝負していたロンドン五輪の頃とは違った大津祐樹が見られたのは確かだ。

 2019年のJ1制覇の際には途中出場でチームを力強く支え、タイトル獲得に貢献する。もちろん本人はスタートから出たかっただろうが、フォア・ザ・チーム精神を前面に押し出し、一体感を作る重要性を身を持って示した。それがベテランになった自分の責務なのだと感じたからこそ、大津は献身的な振舞いを見せたのだろう。

 そういったスタンスは2021年に磐田に移籍してからも続いた。磐田では2021年のJ2リーグ40出場6ゴールと最初のシーズンからJ1昇格請負人として活躍。2年目の2022年は26試合出場にとどまったものの、まだまだ彼らしいスピードやテクニック、ゴール前でのアイデアが随所に見られた。

 だからこそ、今季のケガは想定外だったかもしれない。「もう少し、大津のプレーが見たかった」と熱望する人々も少なくなかっただろうが、本人の中では前述の通り、100%で戦えないフットボーラーを続けられないという思いが強まり、ピッチを退くことを決めた。我々はそのプロフェッショナル精神を最大限尊重すべきだろう。

 セカンドキャリアでは「新たな事業に挑戦する」とのことだが、すでに彼は酒井宏樹(浦和)と会社を興し、ビジネスの世界に参入している。そちらに早い段階でシフトし、違った形でサッカー界に何らかの還元をしたいと考えているはずだ。そういった前向きな姿勢も大津の良さ。現役選手としては天国と地獄を味わい、悲喜こもごもの経験をしてきたが、その全てが今後の人生に生かされるに違いない。

 我々を何度も魅了してくれた大津祐樹というアタッカーに今一度、感謝を伝えたい。

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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