玉田圭司が回顧、名古屋ピクシー政権時代の実話 「監督のゴール賞は?」“革靴弾”のエピソードには続きが…

かつて名古屋の監督を務めたドラガン・ストイコビッチ氏【写真:Getty Images】
かつて名古屋の監督を務めたドラガン・ストイコビッチ氏【写真:Getty Images】

【専門家の目|玉田圭司】名古屋監督時代の“ピクシー”にまつわるエピソードを紹介

 1993年に開幕したJリーグは5月15日に30周年を迎える。「FOOTBALL ZONE」ではこの節目に合わせて特集を展開。その1コンテンツとして、かつて名古屋グランパスの選手&監督としてその名を轟かせたドラガン・ストイコビッチ氏に焦点を当てる。名古屋の指揮官としては2010年にJ1初優勝をもたらすなど手腕も発揮。そんな監督時代の“ピクシー”にまつわるエピソードを、名古屋時代に師弟関係を築いた元日本代表FW玉田圭司氏に語ってもらった。(取材・構成=橋本 啓・FOOTBALL ZONE編集部)

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 名古屋時代のストイコビッチ監督とは、いい関係性を築けたと思っています。僕は少し逆らったほうですけどね(笑)。納得いかない時は態度に出てしまった時もあって、僕のほうから謝りに行くと、監督からは「問題ないけど、俺にも限界はあるからな」と冗談を言われたり……。ピクシーには「お前がナンバーワンプレーヤーだ」ってずっと言ってもらっていて、すごくモチベーションになりました。

 監督時代のピクシーを語るうえで、まず思い浮かぶのがそのカリスマ性ですよね。監督経験ゼロだったのに、まるで何年も指導してきたかのような立ち振る舞いでした。カリスマ性があることで、チームを束ねることができるんですよね。そうした姿を見て、改めてカリスマ性という要素の重要性を思い知りました。

 ピクシーと言えば、熱くなるイメージがあったかと思います。それは間違いないです。ミスしたら怒られると恐れられていた部分もあったんですけど、一方でお茶目なところもあるんです。例えば練習終わりにサイドバックやサイドハーフの選手に「クロスを上げろ」と指示して、いきなり凄いボレーシュートをスパーンと決めるんですよ。それで1発決めたらクラブハウスに返っていくっていう……無邪気なんですよね。

 ピッチ外のことで言うと、とにかく日本食が大好きで、魚の鮎が大好物なんですよ。鮎が目の前に出て来るやいなやニヤニヤしちゃって。見ている側としては「そんなに嬉しいの?」って思うくらい顔がにやけてバクバク食べていたのも印象に残っています。

不甲斐ない試合をしたあとのハーフタイム、ピクシーの「足もとに何かあったら駄目」

 話は戻りますが、“熱くなる”という点ではハーフタイムのエピソードも忘れられません。不甲斐ない試合をしてハーフタイムを迎えた時、ロッカールームでピクシーの足もとに何かあったら駄目ですよ(笑)。何でも蹴飛ばしますから。それが誰かにぶつかるとか、何かを壊してしまったとかもありました。ただそれは、選手たちを奮い立たせるための振る舞いでもあったとは思います。「こんなんじゃ駄目だ」と。それが計算だったかどうかは分かりませんが、それが良い方向へ向く時もありましたね。

 監督時代のピクシーにまつわるエピソードとしては、なんと言っても伝説の“革靴ゴール”(2009年J1リーグ第29節横浜F・マリノス対名古屋戦で、ベンチ前に飛んできたボールをストイコビッチ監督が革靴でシュート。ボールは見事にゴールインとなったが、主審への侮辱行為とみなされてストイコビッチ監督は退場処分)でしょうね。監督があそこまで沸かせるっていうのはなかなかないんじゃないかなと。当時、僕はピッチ上にはいなかったんですけど、現場にはいたので凄いなと思いましたし、その後選手の間でも話題になりました。

 実はこの話には続きがありまして……。その年のJリーグアウォーズに僕はピクシーと一緒に参加したんです。会場でいろいろと表彰されるなかでピクシーの横で座っていた時「監督のゴール賞はいつ発表されるんだ?」って(笑)。僕は「今年はあるかもしれないですね。特別賞として」と返答した記憶があります。

 僕は1990年のイタリア・ワールドカップをしっかりと見ていたので、その大会で活躍したピクシーを覚えています。グランパスが好きになったのも、ピクシーがいたからだったんです。そんな憧れの人が監督になったわけですから、評価されたい、認められたい、と思うのも当然。そのなかでプレーできたのはなにより大きかったですね。選手として良い時代を過ごしました。当時のグランパスには個性的な選手が多くて、そういう選手たちと戦えたのも宝物だと、今でも思っています。

[プロフィール]
玉田圭司(たまだ・けいじ)/1980年4月11日生まれ、千葉県出身。名門・習志野高校から99年に柏レイソルへ入団。プロ5年目で主力に定着し、2桁得点をマークした。2004年に日本代表へ初招集。名古屋グランパスへ移籍した06年にはドイツW杯へ出場し、第3戦ブラジル戦でゴールを決めた。10年南アフリカ大会でW杯2大会連続出場。国際Aマッチ通算72試合16得点を記録した。セレッソ大阪、V・ファーレン長崎にも所属し、Jリーグ通算511試合131得点した左利きのストライカー。21年に現役を引退。23年4月より昌平高校サッカー部(埼玉)のコーチに就任した。

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