ドイツは日本サッカーの救世主? アマチュア弱小国に示した破格の厚意、W杯初戦で強豪を倒す“恩返し”のシナリオは?

初戦でドイツと対戦する日本【写真:ロイター】
初戦でドイツと対戦する日本【写真:ロイター】

【識者コラム】伝統的に隙のない国・ドイツとW杯で激突、日本代表の命運を握

 注目のカタール・ワールドカップ(W杯)ドイツ代表戦が迫っている。この試合が日本代表の命運を握るのは衆目の一致するところなので、もし惨敗でもするようなら国内の熱気は一気に冷めてしまうのかもしれない。

 ドイツは明らかに日本サッカーの大恩人だ。1960年には、同国屈指のエリート候補だったデットマル・クラマーを特別コーチとして派遣してくれた。当時ドイツ国内でも1954年スイスW杯を制したゼップ・ヘルベルガー監督の後継者の有力候補と目されていた人物だから、今ならハンス=ペディーター・フリックやユリアン・ナーゲルスマンを派遣してくれたようなものである。逆にクラマーは来日しなければ、1974年西ドイツW杯ではヘルムト・シェーンの代わりに代表チームの指揮を執っていたかもしれない。

 実際、のちにバイエルン・ミュンヘンを率いて欧州制覇も成し遂げ「日本代表をメダル獲得に導くよりずっと簡単だった」と語っている。またへネス・バイスバイラーは日本初のプロ選手輩出に尽力し、FCケルン監督時代には奥寺康彦を獲得してチームを2冠に導いた。ドイツが世界最先端を突っ走り、日本はアマチュアの弱小国だったことを思えば、破格の厚意を示してくれた救世主だった。

 ドイツは伝統的に隙のない国だ。W杯は1934年の第2回大会から19回出場しているが、そのうち日本が目標としているベスト8には16度も到達している。その嫌味なまでの強さを表現したのが、1986年メキシコ大会得点王のギャリー・リネカーが残した言葉だった。

「結局最後には必ずドイツが勝つ」

 1990年イタリア大会準決勝でPK戦の末に敗れたあとに発したものだった。

 当時のドイツは嫌われ者だった。90年イタリア大会期間中には、各国の記者から異口同音の感想を度々聞いた。原因は70~80年代のW杯での西ドイツ代表の軌跡にあった。74年地元開催の大会では、決勝戦で「トータル・フットボール」を提示し世界中から絶賛を集めたオランダを、ベルティ・フォクツの徹底マークでヨハン・クライフを封じ下してしまった。

 82年スペイン大会では、初戦でアルジェリアに敗れながら、グループリーグ突破のための談合試合(3戦目のオーストリア戦で先制すると、互いにまったく攻め合わず1-0で帳尻合わせ)を行い決勝まで勝ち上がった。準決勝では延長戦で2点差を追い付きPK戦で勝ち上がるのだが、試合後半にGKハラルド・シューマッハーがエリア外でフランスのDFパトリック・バチストンに体当たりして病院送りにした行為に反則さえ与えられずに物議を醸した。つまりリネカーの“愚痴”に込められたのは、プレーの質を凌駕する土壇場に粘り強さへの諦観だったはずだ。

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加部 究

かべ・きわむ/1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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