「鹿島でプレーしたいか?」 “初期”黄金期を支えたブラジル人FW、日本行きを決断させた“神様”からのサプライズ

マジーニョは現在、息子や孫たちに囲まれて幸せに暮らす【写真:本人提供】
マジーニョは現在、息子や孫たちに囲まれて幸せに暮らす【写真:本人提供】

最も印象深いのは1996年のJ1初優勝

 最も心に刻まれるのは、1996年のJ1リーグ初優勝だという。第24節で柏レイソルに0-1で敗れたあと、優勝するには残り6節で5勝することが必要だった状況のなか、見事に5連勝してタイトルを勝ち取った。マジーニョも順調に得点を重ねていた。

「5勝目はホームでの名古屋グランパス戦だった。4-2で勝ったんだけど、真中(靖夫)の2ゴールで2-1になった時、僕もここで決めないわけにはいかないと思ってね。ハーフタイムにもう1枚、ユニフォームを重ね着したんだ。『僕は絶対にゴールを決める。決めたら1枚は脱いで、サポーターにプレゼントするんだ』という願掛けのような気持ちで。

 おかげさまで決めることができて、スタンドにいたサポーターの1人にシャツを手渡した。いつもいたからね。どんなに寒くても、スタンドの前方に、上半身裸で応援してくれているイカしたヤツらが(笑)」

 当時、優勝へと突き進むきっかけの1つになったのが、第15節横浜フリューゲルス戦だったという。1位の横浜、2位の鹿島による前半戦の頂上決戦に、マジーニョのゴールで1-1と引き分けたものの、PK戦で敗れてしまったのだ。

「ハードな試合でね、ジョルジーニョが相手のエバイールと揉み合ったり、その2人をみんなで引き離したり(笑)。ライバル意識も強かった。あの敗戦が悔しくて、試合後はみんなで、絶対に優勝しようと誓い合った。そのとおりになったんだから、なおさら心に残る一戦になった」

 優勝の瞬間は、日本人の選手たちや関係者、そしてサポーターの歓喜の爆発を見ることで、マジーニョ自身の感動もさらに深まった。

「『ああ、これを達成するために、僕らは戦ってきたんだ』って実感してね。僕も母国を出て、遠く離れた国でタイトルを獲り、仲間とこれほど大きな喜びを分かち合えるなんて、幸せでどうかなりそうだった。初めてのビールかけにも参加して、スポーツ選手がラッパ飲みするわけにはいかないけど、少しは飲んだりしてね(笑)」

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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