Jリーガーから常務取締役へ 元磐田MFがマウスガードの普及に尽力する理由

磐田時代、C大阪の山口蛍と競り合う姿【写真:Getty Images】
磐田時代、C大阪の山口蛍と競り合う姿【写真:Getty Images】

2009年の海外挑戦から学んだこと

 さらに今後、太田はスポーツ以外にも事業を拡大していく予定だという。「スポーツへの恩返し」を掲げるが、「今後もマウスガードをメインにしつつ、より幅広いところで誰かを支えていきたいと思っています」と言葉に力を込める。

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 この「誰かの支えになりたい」という思いは、波乱万丈なキャリアが礎になっている。仙台時代の2011年に起きた東日本大震災も太田の価値観に大きな変化をもたらしたが、2009年にジュビロ磐田を退団して海外クラブ移籍に挑戦した時の経験も今に生きている。当時、フランスやベルギー、ドイツなどのクラブに練習参加したが、移籍先は決まらなかった。

 そこで学んだのは、コミュニケーションの重要性だった。

「僕は海外に行くまで本当に無口で、サポーターの方々との交流もほとんどしてこなかったんです。でも、海外挑戦で言葉が分からない環境でコミュニケーションが取れないと本当に厳しいと知ったんです。当時は本当にシャイな性格で、相手が伝えようとしていることが分からないと何も返せずに黙ってしまいました。きっと『なんだ、こいつ』って思われていたと思います。

 通訳もいない環境で孤立して、練習ではパスも回ってこなかった。僕は誰よりも走れる選手でしたけど、周りに生かされてこその選手です。コミュニケーションを取ってそういったことを理解してもらわなければ何も始まらない。そこで学んだコミュニケーションの大切さを、今はいろいろなところで伝えている。海外移籍は叶わなかったですけど、その経験は今に生きていると思っています」
 
 プロデビューを飾った“黄金期”のジュビロでは名波浩ら偉大な先輩からのアドバイスに救われた。海外挑戦で自分に足りない部分を知り、東日本大震災を機に「誰かのために」プレーする気持ちが芽生えた。そして、マウスガードとの出会いでアスリートにとって健康体でいられることが何より大切なことだと気がついた。そうしたいくつもの経験が今の太田を形作っている。これからはそうした経験の数々を、次の世代へ伝えていくつもりだ。

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