突然のクビ通告「ドッキリかと」 元日本代表が「引きこもりに」…契機となった理解者不在

インタビューに応じた岩政大樹氏【写真:FOOTBALL ZONE編集部 】
インタビューに応じた岩政大樹氏【写真:FOOTBALL ZONE編集部 】

後押しする存在が離れたことで置かれた微妙な立場

 2022年8月に古巣・鹿島アントラーズの監督になり、40歳でJリーグ指揮官の道を歩み始めた元日本代表・岩政大樹氏。しかしながら鹿島を23年末に去り、その後はハノイFC(ベトナム)の指揮を経て、25年頭から北海道コンサドーレ札幌で指揮を執り始めるも、わずか8か月で契約解除となり成果を残せないままJの舞台から離れることになった。現在は母校・東京学芸大学蹴球部の監督として指導に当たる岩政氏はどんな日々を過ごしているのか。鹿島、札幌での出来事をどのように受け止め、今後に生かそうとしているのか。偽らざる思いを赤裸々に語った。(取材・文=元川悦子/全6回の1回目)

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 2026年8月末。東京都小金井市にある東京学芸大学のグランドに岩政の姿があった。今は関東大学リーグ3部を戦う母校の指導に軸を置いている。ちょうど4年の半田祥真のFC岐阜加入が内定したタイミングで、「久しぶりのJリーガーが出たのは学芸大にとってポジティブなこと。後輩たちの励みにもなると思います」と指揮官は目を細めていた。

 その岩政が札幌の監督を退いたのは、昨年8月11日のこと。直接的な引き金になったのは、8月9日のV・ファーレン長崎戦だ。高嶺朋樹(現名古屋グランパス)が前半先制点を奪い1点をリードしたものの、後半にマテウス・ジェズスの2発に沈むという痛恨の敗戦だった。人生が一変した8月11日。志半ばで宮の沢白い恋人サッカー場を離れた時のことをこう振り返る

「翌日札幌に戻る途中に、強化担当から『クラブハウスに着いたら来てほしい』と言われました。僕はクビになる話だとは全然考えてはいなかった。まあ自分が鈍感だったのかもしれないけど、いきなり『ここで終わりだから、申し訳ないけど』と告げられた。自分としては『え、そんなはずないでしょ』という感じ。正直、ドッキリかと思ったくらいです(苦笑)。そのまま荷物を急いで段ボールに入れて、クラブハウスを出ることになりました」

 岩政が札幌の監督に就任したのは2025年1月。2017~24年にかけて続いたペトロヴィッチ(ミシャ)監督体制がJ2降格という形で終焉を迎え、クラブの立て直しを託されたのが彼だった。札幌の代表取締役GMを務めていた三上大勝氏(現ガンバ大阪FD)から、「7年間のミシャ体制から新たな方向に変えてほしい」というオーダーを受けての監督就任だった。

 ミシャ時代には固定化されがちだった選手起用に幅を持たせ、若手を使いながら競争させ、勝てるチームを作っていく仕事は難易度が非常に高かった。岩政自身もそれをよく理解していたからこそ、じっくりと腰を据えて取り組むつもりだった。その考え方を三上氏も後押ししていたが、2025年3月に三上氏が札幌を離れることなった。となれば「任命権者不在」となり、岩政は微妙な立場に置かれる状況に陥ってしまったのだ。

 その時に結果が出ていたらよかった。しかし、2025年の札幌は開幕4連敗からスタートし、夏の中断時点では10位。後半戦に連勝街道を驀進しないと1年でのJ1復帰は叶わないところまで追い込まれていた。逆風が強くなるなかで、昇格のライバルだった長崎に敗れたことが最終的な致命傷になったのだろう。

「僕は開幕4連敗した時もそこまで焦りはなかったんです。当時のコンサはミシャ体制で長年主力だった選手とそうではなかった選手が混在していたんで、あの4連敗で『俺たちは変わらなきゃいけないんだ』と一気にシフトしたと前向きに捉えたからです。

 その後は1回も連敗しなかったですし、徐々に浮上していけると感じていましたが、やはり三上さんがいなくなったことは大きかった。今思うとあのタイミングで契約解除になる予兆はあった気がします」

 解任された監督というのは、いきなり無職になる。行くところもなければ、やることもない状況に追い込まれるのだ。岩政の場合、札幌に長く住むつもりで東京の家も引き払っていたため、札幌に居続けるしかない。肩身の狭い思いを感じたそうで、当時の苦しい胸の内を次のように語る。

「行くところがなくて、札幌に居座るしかなかったんですけど、『出歩いたらいろんな人に気づかれて嫌だなあ』と思ってしまって、3日くらい引きこもりになりましたね(苦笑)。飲まず食わずの日も1日ありました。ショックというか、イライラというか、何とも言えない心境だったのは確かです」

 翌12日に石水創社長が地元メディアの取材に応じ、「当初思い描いていた攻撃的サッカーが表現できず、サッカー観や方向性に看過できないズレが生じた」と解任理由を説明した。特にインパクトが大きかったのは、「ミシャさんからの『継承と前進』を掲げておきながら、『ミシャサッカーからの脱却』を目指すというのが看過できなかった」という発言だ。これにはさまざまな関係者からも批判的な声が寄せられた。

「その発言はネットニュースで見ました。冷静になって考えると、サッカークラブというのは誰が経営者でどういう決断をするか次第なので、致し方ないと思いました。僕は監督としてクラブをいい方に変えていこうとしていましたけど、経営陣の要望に応えていなければこうなってしまう。現実の厳しさを痛感させられました。

 ただ、1つ言わせてもらうと、僕はミシャ監督のことは好きだし、リスペクトもしています。ミシャのどこを継承して、どこを変えなければいけないかというのは、自分の中でもしっかり吟味し、判断して、選手に伝えていた。継承しないつもりは一切なかったです。そういうシナリオは避けたかったですけど、僕の力不足でしたね」

 鹿島を離れた時以上にどん底に突き落とされた岩政。そこから這い上がるのは容易ではないと思われた。(本文中敬称略。第2回に続く)

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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