W杯で衝撃弾の中村敬斗、恩師が語る原点 小6で見せた異質な才能「ボールがピンポン玉のよう」

中村敬斗の恩師・生方コーチが出会いを回想した
北中米ワールドカップ(W杯)に挑む日本代表メンバーに選出されたMF中村敬斗(スタッド・ランス)。中学年代から高校年代にかけて所属した三菱養和サッカースクールで指導を受けた恩師の生方修司チーフコーチに、初のW杯でゴールを決めた中村の歩みを聞いた。第1回は三菱養和での出会いと、衝撃を受けた能力について。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・上原拓真/全3回の第1回目)
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生方コーチが中村に出会ったのは小学6年生の頃だった。当時、中村は柏レイソルU-12に所属していたが、U-13には進まず、地元クラブでプレーしたのち、セレクションを経て三菱養和に加入した。
「開口一番、『三菱養和はドリブルをさせてもらえますか?』と聞かれました。あんなに小さい子が、自分をアピールするより先に『自分のやりたいサッカーができるか』を確認してきたことに、驚きましたね」
実際に練習を見て、生方コーチは「これはちょっとモノが違うな」と感じたという。当時のプレーから、日本代表に上り詰め、W杯の舞台に立つ姿を想像することもできた。「私が今まで見てきた中でナンバーワンの才能でしたから」と、中村との出会いを振り返る。
プレースタイルは「南米スタイル」。中村自身も憧れの選手に元ブラジル代表FWロナウジーニョ氏を挙げるなど、ドリブルへの強いこだわりを持って歩みを進めてきた。足に吸い付くようなドリブルは、当時から健在だったという。
ドリブルだけでなく、生方コーチが驚いたのはボールの芯を捉える「ミート力」だった。当時の中村は身体の線が細く、ひ弱に見えたというが、得意な形からシュートを打たせれば、相手GKもお手上げの一級品だった。
「足は細いのに、シュートを打つとボールがピンポン玉のように飛んでいく。のちに親御さんに聞いたら、雨の日は家の中でピンポン玉を投げてもらってボレーの練習をしたり、カーテンに向かって蹴ったりしていたそうです。ボールの芯を食う技術は、その時から完成されていましたね」
中学時代の中村は、典型的なオン・ザ・ボール型の選手だった。ボールが集まる環境のなかで自らの武器を磨き、同年代の選手と比べても圧倒的なドリブル力とシュート力を発揮。1試合で11点を決めることもあった。それでも、中学3年生でユース(高校年代)の試合に飛び込むと、大きな壁にぶつかった。
「中学時代はいわゆる『無双状態』でした。ただ、中3でユースの試合に出始めると、相手の強度が高くてドリブルで抜けなくなったんです。そこで初めて、『ボールが来る前に周りを見て、情報を入れてファーストタッチの場所を変えたほうがいい』とアドバイスしました。彼は本当に素直で、コーチの言うことを確実にこなしていった。ストイックに努力して、見事にその壁を越えていきました」
自分のプレーに満足することなく、課題と向き合い続けた中村。当時は地元の千葉県我孫子市から巣鴨のグラウンドまで電車で通う日々だったが、それも苦にはしなかった。居残り練習にも励み、生方コーチが「早く帰りなさい」とストップをかけるほど、真摯にサッカーへ向き合っていた。
「ユースの練習が始まる前の15分とか、終わってからもすごく集中してやってました。その積み重ねが今に生きてるんでしょうね。僕も『全体練習だけじゃ上手くならないよ』と話してたので、工夫してやってました。敬斗はコーチの話を聞くよりボールを触っていたいタイプだったので、主体的にやってましたね」
学生時代の積み上げが、現在の中村敬斗を作り上げた。左45度から切れ込み、鋭いシュートを放つ「ケイトゾーン」も、三菱養和での努力が実った一つの形。そして高校3年生になった中村は、ガンバ大阪への加入を決断する。(第2回に続く)
(FOOTBALL ZONE編集部・上原拓真 / Takuma Uehara)

















