高卒2年目に監督激怒「激しく当たるな」 冷たい視線も…先輩擁護「あんなこと言われたら」

鈴木啓太にチッタ監督「サテライトの選手がトップの選手に激しく当たるな」
福田正博、山田暢久、鈴木啓太、平川忠亮……。浦和レッズひと筋に忠勤した選手のうち、引退試合を開催した4人の顔触れだ。在籍16年でJ1通算379試合に出場した鈴木は、日本代表としても国際Aマッチ28試合を経験。男前の顔立ちとは相いれぬメラメラとした闘志を内に秘めた勇者で、これが当代一流のボランチに押し上げた原動力だった。
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チームが初めてJ2に降格した2000年、新規卒業者は3人しか加入しなかった。大卒が早川知伸だけで、高卒は静岡・東海大翔洋高出身の鈴木と浦和ユースから昇格した千島徹である。鈴木も千島も、2001年の世界ユース選手権を目指すU-19日本代表候補に名を連ねる逸材であった。
千島が4月12日、川崎フロンターレとのナビスコカップ1回戦の第1戦でプロデビューしたのに対し、鈴木はなかなかチャンスをつかめなかった。10月7日のJ2リーグ、ベガルタ仙台戦で初めてベンチ入りしたが出番はなし。
背番号31が初めて公式戦のピッチに立ったのが、12月3日の天皇杯全日本選手権2回戦。宮崎県代表で九州サッカーリーグ所属のホンダロック戦だ。石井俊也とボランチを組んで先発し、前半43分に土橋正樹のパスを預かると右足で豪快な中距離弾を蹴り込んだ。デビュー戦でいきなりの初得点。試合後の言葉の端々にも強気な性格がにじんだ。
「40試合もあったリーグ戦でサブが1回だけですからね、悔しかった。でも出られなかったことをプラスにし次につなげることを考え、腐ったりしないでやってきたから天皇杯の先発とゴールがあったんだと思う。きょうは最初から点を取るつもりで臨んだら、その通りになった。来年はチーム内の競争に勝たないといけないが、自信はある。負けやしない」
高卒新人の言葉からは少しかけ離れているな、と感じた。1年目だし試合に絡めなくても仕方ない、2年目以降が勝負だ――。こんなふうに考えるのが一般的な高卒の新人だと思われるが、鈴木の思いはまったく違った。
だがチームが1年でJ1復帰を果たし、背番号を13に変えた翌年も簡単にはポジションをつかめず、第1ステージは1度もトップチームに帯同できなかった。
浦和はこの年、チッタ監督をはじめフィジカルコーチ、GKコーチ、フィジオセラピスト、用具係に至るまでブラジル人で固め、トゥットら3人の外国籍選手も全員がブラジル人に一新。辻谷浩幸コーチら日本人スタッフはいたが、全権は“王国”の人々に委任された。
ボランチの陣容は阿部敏之、石井、土橋、ドニゼッチ、小野伸二の5人のなかから構成され、石井がアンカーに抜てきされた時期もある。鈴木はこの強力な5人の間に割って入れず、“2軍”に当たるサテライトリーグで実戦を積み、好機到来を待った。
チッタ監督は試合に帯同する主力級を重宝し、そのほかの選手とは一線を設けた。トップチームは23人で編成されたが、鈴木が第1ステージで23人のメンバーに呼ばれることはなかった。
あれは鹿島アントラーズ戦を5日後に控えた4月24日だった。ベンチ入りする16人とサテライト組に分かれて紅白戦を行った。
名古屋グランパスとの開幕戦では、左ストッパーでフル出場したDF室井市衛だが、その後は出番がなくなったばかりかサテライトチームに降格。トップチームに復帰しようと紅白戦で猛アピールした。
鈴木も同じ思いでファイトする。持ち前の負けん気の強さを前面に押し出し、主力選手に激しいボディーコンタクトとハードタックルをお見舞いしたのだ。
するとこのふたりにピッチ横にいたチッタ監督が激高する。通訳のバリさんが「サテライトの選手がトップの選手に激しく当たるな。怪我をさせたらどうするんだ」と指揮官の怒りをそのまま伝えた。
だが、そんな監督の冷たい視線と言葉などどこ吹く風。鈴木は悠然として身上であるピッチを幅広く動き回るプレー、対面する選手への正当なチャージでボールを奪い取る守備を続けた。
後日談だが、中盤の大黒柱で前年に鹿島から移籍してきた阿部は、「あんなことを言われたら、室井も啓太も気の毒ですよ。鹿島ではごく当たり前のことでしたからね」と苦笑しながら言った。
紅白戦は控え組がレギュラーを奪い取るための格好のアピールの機会なので、削り合いや怒鳴り合いの応酬だったそうだ。チーム内のそんな激しい競争意欲こそ、鹿島の強さの根源だと阿部は説明した。
第1ステージが終わって約半月後の8月8日、ナビスコカップ準々決勝の第1戦で鹿島と顔を合わせた。この年、公式戦初のベンチ入りを果たした鈴木は後半13分から出場し、無失点での先勝に貢献。ここからチッタ監督の信望を集めると、第2ステージ開幕戦ではJ1で初めて16人の帯同メンバーに選ばれ、途中出場の機会を与えられた。
そうして第2節の東京ヴェルディ戦で待ちに待った先発リストに入り、阿部とボランチを組んでフルタイム走り回った。
これ以降、リーグ戦14試合とナビスコ杯準々決勝の第2戦、天皇杯4試合の全公式戦に先発。浦和のボランチは多士済々だが、2年目にして確かな地位を確立する。ハンス・オフト監督が指揮を執った2002年からの2シーズン、栄華が到来したギド・ブッフバルト監督時代の3年間、アジアの頂点に栄達した2007年……。監督が交代しても、戦術が代わっても、鈴木は中列後方でチームを鼓舞しながらバランスを取り、闘争家としての信念と覚悟を持って戦い抜いた。
サッカーどころの静岡県清水市出身。技術のある上手な選手が大勢いるだけに、子どもの頃から強い精神力を武器にしようとした。
「浦和のボランチと言えば、真っ先に鈴木啓太をイメージしてもらいたい」と話すようになった2002年、かの紅白戦のことを聞き直してみた。「ハートで戦える選手になりたかったし、レッズの選手がファイトできなかったら失格ですからね。紅白戦だろうが全力でチャレンジしていただけです」と答えた。
不屈の精神力と燃えたぎる闘争心こそ、進歩するためのよりどころだった。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。












