人見知りで選抜落ち…天才が発見された試合 「一言も喋れない」少年が16歳でプロになれたワケ

高萩洋次郎氏が現役時代を振り返った【写真:井上信太郎】
高萩洋次郎氏が現役時代を振り返った【写真:井上信太郎】

高萩洋次郎氏は今年1月に現役引退を発表

 サンフレッチェ広島やFC東京で活躍し、今年1月に現役引退を発表した元日本代表MF高萩洋次郎氏が、「FOOTBALL ZONE」のインタビューに応じた。2003年に当時、16歳8か月3日でJリーグ史上最年少デビューを飾った“天才”が、21年間のプロサッカー人生を振り返った。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全11回の1回目)

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 2025年1月3日、一人のサッカー選手がスパイクを脱いだ。22年前、Jリーグ史上最年少デビューを飾った16歳の青年は、数々の出会いに導かれ、22年間のプロサッカー人生を駆け抜けた。

「もういい思い出しかなくて。楽しかったことしかないですね。仕事と思ったことは一回もないですし、ストレスと感じたことは一度もなかった。もう充実していたので。辞めてもまたサッカーしたいって思わないですから」

 高萩洋次郎ー。予想もしない、創造性あふれるパスで見るものを惹きつけた天才司令塔。その足跡をたどっていきたい。

 まだ高萩が何者でもないサッカー少年だった頃に、時計の針を巻き戻す。福島・いわき市植田町で生まれた少年は、2歳上の兄と共にボールを蹴り始めた。

「2つ上の兄が小学3年生の時に地元の少年団に入ったんです。僕は1年生だったので、兄がサッカーをしているところを、校庭で半分出ているタイヤに座りながら見ていたんです。3年生からしか入れなかったんですけど、当時の監督が『お前もやっていいぞ』って特別に入れてくれて。そこからはずっとボール蹴ってましたね。実家も田舎なので駐車場みたいなところでも兄とボール蹴っていました」

 小学5年生の時には全日本少年サッカー大会に出場したが、6年生の時には県大会で敗退。「もっとサッカーがやりたい」と両親に相談すると、Jヴィレッジのサッカースクールを見つけてきてくれた。

 だが問題があった。Jヴィレッジがある広野町までは車で1時間ほど。小学校を終えてから行こうとすると、小学生クラスには間に合わなかった。そこで思い切って、遅い時間から始まる中学生クラスで受けられないかと相談した。練習参加で技術の高さを証明すると、スクールの責任者を務めていた高田豊治さんが認めてくれ、週に1回通うようになった。小学校卒業後も、地元の植田中学校のサッカー部に所属しつつ、週に1回はスクールに参加した。

「やっぱり大きかったですね。地元の中学のサッカー部だけじゃなくて、違う刺激もありました。(コーチの)高田さんはサッカー協会の哲学や指導法も理解されていた方なので、部活とは違う練習もできましたし。それに何より人工芝で、土のグラウンドではないので、その良さもありました」

 その“聖地”で人生を動かす運命の出会いがあった。ある日、スクールでプレーしていた時に、一人の背の高い外国人がフラっと練習に現れた。それが、当時日本代表の監督を務めていたフィリップ・トルシエ氏だった。

「夜にトルシエさんがスクールに来てくれたんです。あの時は日本代表がよくJヴィレッジで合宿をやっていたんですよね。それで見に来てくれたみたいで。何を言われたかまでは覚えてないですけど、すごく刺激でしたね。『うわっ、日本代表の監督だ』みたいな。いわきには当時Jクラブはなかったですし、テレビでもあまりサッカーやっていなかったので。それまではただサッカーをやっていたんですけど、初めてそこでプロサッカー選手を目指したいと思いました」

深刻だった“人見知り”問題

 プロサッカー選手になるという目標に向かい、技術はメキメキと上達した。だが大きな“弱点”があった。極度の人見知りで、指導してくれた高田豊治さんからは常に「もっとコミュニケーションを取れ」と言われていた。

「地元の少年団とか、中学のサッカー部では結構要求したりできたんですけど、本当に人見知りで。それこそトレセンとかに行くと全く一言も喋れなくて。もう本当に借りてきた猫みたいな感じ。ウォーミングアップって2人組でやることが多いじゃないですか。相手を探すのが本当に苦手で。それは今でも好きじゃないです(笑)」

 この人見知り問題は、サッカーにも大きな影響を及ぼした。継続的に選ばれていた福島県トレセンでは次第に力を発揮できるようになったが、何度か行った東北トレセンでは一言も喋れず、選抜チームには落ち続けた。だが中学2年生の終わりに福島県選抜として行った関東遠征で予想だにしないことが起きた。

「関東の選抜チームと試合をする機会があって。その時に当時U-15日本代表の監督をやっていた須藤(茂光)さんとコーチの鈴木淳さんが見に来ていて。『なんで東北トレセンに入ってないんだ』となったみたいで。それでU-15日本代表のトレーニングキャンプに呼んでもらったんです」

 錚々たるメンバーがそろっていた。家長昭博(川崎フロンターレ)や細貝萌(現ザスパ群馬社長)、丹羽大輝(アレナス・クルブ)ら、のちに日本代表になる選手たちの中に、いきなり放り込まれた。もちろんあの癖が“発動”した。

「もう本当に一人も知らなかったので嫌だったんです。しかもちょっと特殊な呼ばれ方だったので、誰?みたいになっていたと思います。でも本当にビックリしました。こんな奴らいるんだって。家長なんてもう出来上がっていて、今とプレースタイルはほとんど変わってないですからね。相当刺激は受けましたね」

 サッカーの才能は誰もが認めていた。だが中学3年の夏になっても進路は決まっていなかった。レベルが高いところでやりたいという思いは強かったが、当時は地元に強い高校がなかった。高田コーチに進路相談した所、予想だにしない提案があった。

「広島ユースの練習に参加してみるかと言ってくれて。もうセレクションは終わっていたので、2日間練習参加という形で、家族で2泊ぐらいで行きました。中村重和さんが監督で、今西和男さんや森山(佳郎)さんもいらっしゃいましたね。そういう方たちと食事したりもして。その後に、うち来てもいいよと言ってもらいました」

 いわきから広島へ。高萩の人生が大きく動き出した。

(FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎 / Shintaro Inoue)



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