日本代表に復帰も…戦力外に納得できず「悔しいし、イラっと」 ベテラン組に非情通告

横浜FMでは6シーズン活躍した山瀬功治だったが、2010年オフで契約満了に
2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年間も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口FCまでの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の4回目)
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右膝前十字靭帯を断裂した札幌時代は浦和レッズから、左膝前十字靭帯断裂でリハビリ中だった浦和では横浜F・マリノスから獲得の申し出があった。大怪我を負ったというのに、こんな不思議な巡り合わせが付いて回った。
当時の横浜FMを率いていたのが岡田武史監督で、山瀬が札幌でプロのキャリアをスタートさせたときの指揮官であり恩師でもあった。薫陶を受けたのは2000年から2シーズンだ。浦和への移籍に苦悶したように、また今度も残留か移籍かで苦渋の色が濃くなった。
考え抜いた末に移籍を決めた。「岡田さんはすごく大きな存在だが、浦和への思いもあってかなり悩んだ。でも最後は、選手としてのイロハを教えてもらった岡田さんとまたやりたくなり、マリノスを選びました」と理由を説明。さらに言葉をつなぎ、「(04年の第2)ステージ優勝を外から見ていてひとり取り残された寂しさを感じ、環境を変えてみたかったんです」とも付け加えた。
2005年1月24日、両クラブから移籍が発表される。札幌での最終年以来となる背番号10を付けて、横浜FMに6年間在籍。プロ6年目にしてプレースタイルに大きな変化が見られたのも、トリコロールのクラブに移籍してからだ。
札幌の2年目から“うまい”選手ではなく、相手にとって“怖い”選手を目指した。守備の背後に進入してゴールを奪うことを意識したが、名うての攻撃陣を抱える浦和でさらに磨きがかかり、アタッカーとしての感覚も養えたそうだ。
「浦和にはエメルソンや永井(雄一郎)さん、(田中)達也のようなドリブラーがいたが、マリノスにはあまりいなかった。組織的なチームに個で打開する選手が合わさったら面白いので、ドリブルを始めたんです。新たなスタイルを確立し、ドリブルは僕の代名詞にもなりました」
横浜でも故障に悩まされた。1年目の夏、腰椎椎間板ヘルニアに苦しみ、数か月後には歩行も難しくなるほど悪化。復帰しても秋以降は改善せず、翌年3月に手術した。
2006年はワールドカップ(W杯)ドイツ大会のためリーグ戦が2か月半中断したが、開幕から14試合も続けて休んだ。ピッチに戻ったのは7月26日で、この1か月後に岡田監督が辞任する。2年目は日本代表デビューを果たした一方で、腰の痛みでシーズンの半分近くを棒に振った。
だがここでも、姉さん女房の理恵子さんが内助の功を発揮する。浦和での靭帯断裂のときは管理栄養士と個人契約し、リハビリ食や怪我を回復させる栄養学をマスター。今度はアロマの勉強を始め、植物から抽出した天然素材の芳香物質を用いたマッサージ、嗅覚や経皮から成分が吸収される全身トリートメントなど、根気よくいろんな施術を続けた。
攻撃を組み立て、得点も奪う近代的なプレーメーカーに進化
副主将に指名された3年目の2007年、コンディションがほぼ万全となった山瀬はようやく本来の力を出し切り、横浜FMで最も思い出に残るシーズンとした。
「この年はマリノスのサッカーそのものが楽しかった。得点も大島(秀夫)さんに次いで、初めて2桁の11ゴールでした。日本代表にも1年ぶりに呼んでもらい、カメルーン戦で初得点。チームの成績は7位でしたが、個人的にはいいシーズンを送れました」
リーグ戦は開幕から出場停止を挟んで29試合連続でフルタイム稼働し、先発した32試合ともフル出場だった。攻撃を組み立て、得点も奪う近代的なプレーメーカーの姿だった。
2008年も開幕戦から24試合続けてフル出場したが、9月20日の第25節から最終節まで25分間ピッチに立っただけ。4か月前から右足裏の痛みが引かず、右足首の捻挫も重なって離脱を余儀なくされた。
2010年はプロ生活で初の契約満了という非情通告を味わう。出場試合数としては、フィールド選手最多の33試合を記録しながら戦力外となった。日本代表にも1年8か月ぶりに復帰していたのだが……。山瀬とともに松田直樹、河合竜二、坂田大輔、清水範久らも契約を延長できなかった。
「世代交代だったんでしょうかね? なんでだろうなっていう思いは当然あったし、全然納得はできませんでした。ただ、こういうケースってどのクラブにもあることだし、プロ契約を交わしている以上はいつか起こりうること。悔しいし、イラっとしたけれど、こればっかりは受け入れざるを得ませんからね」
だが、これだけ実績のある逸材を他クラブが放っておくはずもない。J1の4クラブが獲得を申し出た。J2でも3チームから声が掛かった。年俸など条件面はどのクラブもほぼ同じなので、自分の特長を出せるチームかどうかで判断した。川崎ともう1クラブに絞り込み、最後は川崎を選んだ。
山瀬は「僕の持ち味のひとつであるドリブルを生かせそうだったし、プライベートでもすごく仲のいい(中村)憲剛さんと一緒にやりたい思いが強かった」と決め手になったふたつの要因を挙げる。2011年、山瀬はJリーグの本流に駆け上がる少し前の川崎の一員となった。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。