中田英寿は「日本人記者にもイタリア語」 退団から20年以上も…現地記者が忘れぬ“素顔”【現地発】
パルマ時代に取材歴のあるピョバーニ記者を直撃
日本サッカー界はこれまで数々の名プレーヤーを輩出してきた。日本代表や欧州クラブで輝かしい実績を残した中田英寿氏はその代表格と言える1人だ。ワールドカップ(W杯)3大会に出場したレジェンドは早くから世界に目を向け、21歳でイタリア1部セリエAへの挑戦を決断。その後、ワールドクラスの選手へと成長を遂げた。
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2006年夏に29歳で現役を引退した「孤高の天才」は、現地イタリア人記者にどのように映っていたのか。「FOOTBALL ZONE」では改めてこの偉大なフットボーラーが周囲に与えた影響力を振り返るべく、「Parma TV」のサンドロ・ピョバーニ記者に当時を振り返ってもらった。
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ベルマーレ平塚(湘南ベルマーレ)から1998年にイタリア1部ペルージャ(当時)へ移籍した中田氏。その後、ASローマではスクデット(リーグ優勝)も経験し、セリエAではパルマ、ボローニャ、フィオレンティーナでもプレーした。
パルマには24~26歳の時に在籍したが、セリエAが「世界最高峰のリーグ」と言われていた時代だけに、ピョバーニ記者の中にも大きなインパクトを残したという。
「中田は入団した時、すでに経験豊富なサッカーのエキスパートだった。とても強く、技術的にも、フィジカルも、戦術的にも賢く、優秀だった。上級な違うカテゴリーの選手で、当時高いレベルの中でプレーしていた」
なかでも、中田氏は2001-02シーズンのコッパ・イタリア決勝で名門ユベントス相手にゴールを決め、大会制覇に貢献した。
「サッカー面で覚えているのは、やはりコッパ・イタリア優勝を決めたゴールをアウェー敵地トリノでユベントス相手に決めたこと。あのゴールはとても重要だった。パルマの最後のトロフィーだった(パルマはそれ以降、タイトルを獲得していない)」
ピョバーニ記者は、「中田は日本人記者にもイタリア語で話していたのが、すごく印象に残っているよ」と振り返る。
「中田はあまり自分のことは話さない選手というイメージだった。でも、『Parma TV』に出演してくれたから、僕は本当の中田を知ることができた。きちんとカチッとしたスーツで登場して、上手なイタリア語で打ち解けて話してくれた。そこで彼のことが理解できた。本当は話すことが好きな人なんだと思った。素晴らしい驚きだった。中田はパルマの街も愛していた。サッカー以外のいろいろな世界に興味を持っていた。オペラの鑑賞、歴史的な建造物を観ていた。誠実で正直な印象を持った」
当時から20年以上が経過した今でも、中田氏は現地の人々から一目置かれ続けている。
(倉石千種 / Chigusa Kuraishi)
倉石千種
くらいし・ちぐさ/1990年よりイタリア在住。1998年に中田英寿がペルージャに移籍した時からセリエAやイタリア代表、W杯、CLをはじめ、中村俊輔、本田圭佑、長友佑都、吉田麻也、冨安健洋など日本人選手も取材。バッジョ、デル・ピエロ、トッティ、インザーギ、カカ、シェフチェンコなどビッグプレーヤーのインタビューも数多く手掛ける。サッカーのほか、水泳、スケート、テニスなど幅広く取材し、俳優ジョルジョ・アルベルタッツィ、女優イザベル・ユペール、監督ジュゼッペ・トルナトーレのインタビューも行った。