名門レアルで輝き放つ20歳の傑物ベリンガム 「史上最強の名手の再来」…破格で最大級の賛辞【コラム】

レアルのジュード・ベリンガム【写真:ロイター】
レアルのジュード・ベリンガム【写真:ロイター】

マエストロにして「水を運ぶ人」という点が共通

 高く上がったボールは重力に従って真上から落下してくるように見えた。非常に処理の難しいボールをジュード・ベリンガムはなんとか手なずける。体勢を崩しながらも持ちこたえ、もうこの試合であるかないか分からないチャンスのボールをフェデ・バルベルデへつなぐ。

 そこからレアル・マドリードの貴重なゴールが決まった。バルベルデからヴィニシウスへリレーされたボールを最後はロドリゴが決めている。前半12分のこの1点がレアルを準決勝へ押し上げた。ほかにチャンスらしいチャンスはほとんどなく、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)準々決勝の第2レグはホームのマンチェスター・シティに押されっぱなしだったのだ。

 レアル先制後、シティはケビン・デ・ブライネのゴールで追い付き、最終的にはPK戦による決着。レアルにとっては守り倒した120分間で掴んだ勝利だった。

 劇的なCL準々決勝のあと、中3日で迎えたエル・クラシコも3-2でFCバルセロナを下し、永遠のライバルに11ポイントの差をつけた。ロスタイムの決勝点はベリンガム。日本のスポーツ新聞でよく使われる表現に「やはりこの男だ」があるが、ベリンガムはそういう選手である。バルサ戦ではアウェーでも2ゴールで勝利の立役者になっていた。

 今季、加入して早々に「ディ・ステファノを思い起こさせる」と評価された。これは破格の高評価で最大級の賛辞と言っていい。

 アルフレード・ディ・ステファノはレアル・マドリードを今日のレアル・マドリードたらしめた1950~60年代のスーパースターだ。アルゼンチンのリーベル・プレートで活躍、コロンビアのミジョナリオスを経てレアルに加入すると、バルサに圧されていたマドリーを欧州きっての強豪に押し上げる原動力となった。いまだに史上最高の名手とも言われている。

 ディ・ステファノの少しあとに現れてサッカーの「王」となったペレは、あちこちに「ペレ」がいた。「砂漠のペレ」とか「白いペレ」が量産されたわけだが、「××のディ・ステファノ」というのはあまり聞かない。テレビが普及した時代のスターだったペレとの認知度の違いなのだろうが、プレースタイルの違いも影響しているかもしれない。

 唯一、ヨハン・クライフが「ディ・ステファノの再来」と呼ばれていたくらい。確かに「偽9番」の系譜を継いだオールラウンダーではあった。ただ、クライフはその前に「オランダのジョージ・ベスト」、「白いペレ」(またか)と呼ばれていて、イメージ的にディ・ステファノとはやはり微妙に違っていた。

 ディ・ステファノは組み立てからフィニッシュまでを1人でこなすフィールドの支配者で、図抜けたインテリジェンスとテクニックとスピードを兼ね備え、自己顕示欲と自信しかないプレーぶりはクライフと重なるが、決定的な違いは「労働者」というニックネームにある。白いジャージを泥だらけにして奮闘するハードワーカーだったのだ。

 稀代のマエストロにして「水を運ぶ人」でもあったレアルの偉人を思い起こさせるとしたら、やはりベリンガムなのだろう。

 押されに押されたシティ戦第2レグでは、自陣のペナルティーエリアすぐ外まで戻って守り、攻撃ではカウンターの先頭に立って牽引していた。6番、8番、10番、9番を合体させた傑物。もちろんディ・ステファノとまともに比較するのは無理があるが、ディ・ステファノがマドリーに来たのは27歳、ベリンガムは20歳。まだ時間はたっぷりある。

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西部謙司

にしべ・けんじ/1962年生まれ、東京都出身。サッカー専門誌の編集記者を経て、2002年からフリーランスとして活動。1995年から98年までパリに在住し、欧州サッカーを中心に取材した。戦術分析に定評があり、『サッカー日本代表戦術アナライズ』(カンゼン)、『戦術リストランテ』(ソル・メディア)など著書多数。またJリーグでは長年ジェフユナイテッド千葉を追っており、ウェブマガジン『犬の生活SUPER』(https://www.targma.jp/nishibemag/)を配信している。

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