日本代表10番を襲った「最悪の思い出」 「鬼門」の平壌、悪夢の失神退場で「調子が戻らず」【コラム】

試合会場での前日練習で森孝慈監督を中心にミーティングをする日本代表【写真提供:森本哲郎氏】
試合会場での前日練習で森孝慈監督を中心にミーティングをする日本代表【写真提供:森本哲郎氏】

1986年W杯アジア予選は北朝鮮と0-0ドロー

 日本代表にとって、平壌での北朝鮮戦は「鬼門」でもある。4戦して2分2敗と勝ち星なし、1ゴールも奪っていない。0-0のドローでワールドカップ(W杯)予選で唯一の勝ち点を挙げたのが、1986年W杯メキシコ大会アジア1次予選。大黒柱だったMF木村和司(日産)の失神退場を乗り越え、0-0に持ち込んだ日本代表の歴史に残る激闘を振り返る。(文=荻島弘一)

「忘れようにも忘れられんわ」

 攻撃の中心として1980年代の日本代表を引っ張った「10番」木村は、平壌での試合を振り返って言う。

「試合をしに行って、平壌の病院に泊ったのはワシぐらいじゃろ」

 苦い思い出は今も鮮明によみがえる。

 1985年4月30日、平壌の金日成スタジアムは熱気に満ちていた。日本チームが会場入りした2時間前は外に長蛇の列。「中に入ったらすでに超満員。入りきれない人が外にあふれていた」と、主将だったDF加藤久(読売クラブ)は振り返る。

 収容人員は公称10万人で当時アジア最大級。実際に、8万人以上は入っていたという。もちろん、日本人ファンの姿はない。「スタンドはカーキ色の人民服一色。暗い感じで異様だった」(加藤)。日本からの報道陣もカメラマンと記者で10人だけ。真の「完全アウェー」だった。

 日本がボールを持つとスタンドが静まり返り、北朝鮮ボールになると地鳴りのような歓声が響き渡った。勝たなければ予選敗退の北朝鮮に序盤から押し込まれた。日本の守備を崩すのではなく、クロスを長身FWに合わせて力づくでゴールを狙う戦法に防戦一方だった。

「北朝鮮はフィジカルが強かった。胸板の厚さや脚の太さは明らかに日本と違っていた」と守備的MFの西村昭宏。前半をなんとか無失点で切り抜けて迎えた後半12分に「事件」は起きた。

同僚の西村は「(木村は)泡を吹いていた」と証言

 木村が味方のクリアボールを頭でつなごうとジャンプ。そこへ、北朝鮮選手が後方から競りかけた。相手の頭が木村の側頭部にヒット。「その瞬間に意識が飛んだ」と木村。そのまま頭から落下。西村は「人工芝の上で頭がバウンドしたのが見えた」と話す。

 主審がすぐに試合を止め、担架を要求。ピクリとも動かない木村の元にチームメイトが駆け寄り、不安げに覗き込んだ。「泡を吹いていたし、大変なことになったと思った」と西村。日産と日本代表で「ホットライン」を組んだFW水沼貴史も「このまま動かないんじゃないかと、心配で仕方なかった」と振り返った。

 担架はロッカールームに直行。付き添った森本哲郎ドクターは「試合は続いていたけれど、それどころではなかった。なんとか無事に日本に帰さないといけないと思うばかりだった」と当時の気持ちを明かした。

 今でこそチームには多くのスタッフが帯同するが、当時は森本ドクターと妻木充法トレーナーの2人だけ。携帯電話もなく、連絡も取れない。木村のそばで、祈るしかなかった。

 攻撃の大黒柱を失ってからも試合は続いていた。北朝鮮はさらに攻勢を強め、日本ゴールに襲いかかってきた。加藤を中心に粘り強く守り、GK松井清隆(日本鋼管)が神がかり的なセーブを連発。「それでも、やられたと思ったシーンが2回ほどあった。本当によく守ったと思う」と加藤。試合は0-0のまま終了した。

 終了間際には攻め疲れの見えた北朝鮮の隙を突き、木村に代わって出場したFW平川弘(順大)が惜しいシュート。ただ、日本のシュートは前半の水沼と合わせて2本だけ。打たれたシュートは23本だった。「もし(木村)和司の退場がもう少し早ければ、守り切れていなかったかも。大量失点してもおかしくなかった」と西村。それほどギリギリの戦いだった。

エース木村は自身初の脳震とうで「半年くらい」は調子が戻らず

 この引き分けで2次予選進出を確実にした日本だが、試合後に派手な喜びはなかった。みんな木村のことが心配だったのだ。40分後に意識を取り戻した木村は救急車で国際病院に直行。「医者も看護師も日本語ができた。それで、少し不安はやわらいだ」と森本ドクター。もっとも、脳震とうのうえに頬骨を骨折していた木村はホテルには戻れず、そのまま入院となった。

 翌朝「事件」を起こした北朝鮮の選手が、病院と日本チームが宿泊するホテルに謝罪にきたという。それでも木村の「最悪の思い出」が消えることはない。「脳震とうは初めてだった。後遺症というか、半年ぐらいは調子が戻らなかった」。エースの失神退場という代償を払って手にした勝ち点1。日本サッカー史に残る壮絶な試合は、ピッチ外でも想定外の出来事が次々と起きていた。(敬称略)

■当時の日本代表メンバー
<GK>
松井清隆(24歳=日本鋼管)

<DF>
池内 豊(23歳=フジタ)
加藤 久(29歳=読売クラブ)
石神良訓(27歳=ヤマハ)
都並敏史(23歳=読売クラブ)

<MF>
西村昭宏(26歳=ヤンマー)
宮内 聡(25歳=古河電工)
木村和司(26歳=日産自動車)後半20分OUT
→平川 弘(20歳=順大)

<FW>
水沼貴史(24歳=日産自動車)
柱谷幸一(24歳=日産自動車)
原 博実(26歳=三菱重工)

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荻島弘一

おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。

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