41歳で引退…元Jリーガーが転身決断の訳 「魅力でしかなかった」「見事なまでに自分に合っている」【インタビュー】

ハートフルクラブの指導は6年目だが「まだ勉強中」と語る盛田剛平【写真:河野正】
ハートフルクラブの指導は6年目だが「まだ勉強中」と語る盛田剛平【写真:河野正】

【元プロサッカー選手の転身録】盛田剛平(浦和、大宮、広島、甲府など)第2回:指導者転身の経緯

 世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。

 今回の「転身録」は、浦和レッズを皮切りに複数のクラブでプレーし、2017年に41歳で現役引退を決断した盛田剛平だ。プロ生活19年間、7つのJリーグクラブに在籍した盛田は、引退後に浦和のハートフルクラブのコーチとして活躍する傍ら、23年3月に念願だったラーメン店を開業するなどセカンドキャリアを歩んでいる。第2回では、指導者への道を選んだ経緯と秘めた思いについて掘り下げていく。(取材・文=河野正)

   ◇   ◇   ◇

 駒沢大と全日本大学選抜のエースFWだった盛田剛平は、1999年に浦和レッズに加入し、7つのJリーグクラブで41歳までプレー。2017年、ザスパクサツ群馬を最後に19シーズンに及ぶキャリアに終止符を打った。

 名古屋グランパスやジュビロ磐田など複数のクラブは、大学4年からの加入を打診したが、盛田は教員免許を取得するため固辞した。

「中学生から教師に憧れていたので、Jリーガーを目指しながら教員も視野に入れ、プロが駄目なら学校の先生になろうと思った。プロでやれる年月は未知数だし、セカンドキャリアとして考えていたんです。先生は夢の1つでした」

 前例はある。横浜フリューゲルスなどでDFとして活躍した岩井厚裕は、引退後の99年に母校の埼玉・川口市立神根中学の教諭になった。岩井は現在、川口市立高校に転籍しサッカー部監督を務めている。

 駒沢大で同期のDF米山篤志は3年でサッカー部を辞め、ヴェルディ川崎に加入したが、単位を取得して卒業した。一方の盛田は4年生になると教育実習もあり、Jリーグでプレーしながら教職を取るのは至難の業と判断したのだ。

 教育職員免許状は手もとにある。教員は中学生からの夢で、セカンドキャリアの有力候補であることに間違いはなかったが、今度は採用試験が待っている。年度にもよるが、一発合格は容易なことではなく、40歳半ばから教員へ転身するのは確かに現実的ではなかった。岩井が教職に就いたのは32歳の時だ。

 ヴァンフォーレ甲府と群馬在籍時に、古巣の浦和からハートフルクラブコーチの話を何度か持ち掛けられている。群馬とは契約満了になったが、念のため他クラブからのオファーも考え、18年1月末まで回答を保留してもらった。

 ただ方向性はほぼ固まっていた。キャプテン(責任者)の落合弘が熱心に誘ってくれたことが大きく、活動理念などを説明してもらい、小学校の授業サポートを見学すると途端に心を揺さぶられた。

 盛田はハートフルクラブなるものに「被災地でのクリニックや海外での草の根交流など、今まで経験したことのないものばかりで、自分にとっては魅力でしかなかった。この活動は俺に向いているとすぐに感じた」と、引退と指導者への道を決めた。

「ハートフルクラブの仕事は自分に合っている。ずっと続けたい」と話す盛田剛平【写真:河野正】
「ハートフルクラブの仕事は自分に合っている。ずっと続けたい」と話す盛田剛平【写真:河野正】

日々アプローチの仕方を模索「思いやりの気持ちってどうやれば伝わるのか?」

 03年の設立から今年で20周年を迎えたこの普及活動は、今や浦和を代表する目玉事業である。AFCアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)に初出場した07年から、「ハートフルサッカー in ASIA」をスタートさせ、11年の東日本大震災発生後には「ハートフルサッカーin東北」が始まった。

 活動の本旨は子供たちの心を育むことで、仲間を信頼して思いやる心、互いに楽しむ心、一生懸命やる心の大切さを伝えてきた。落合は芸事の修行段階に使われる“守破離”の考え方を引用し、基礎を作りながら(守)、個性を磨き(破)、新境地を確立する(離)という着想を得て子供たちと向き合っている。

 技術や戦術を教え込み、サッカーの腕前を上げる仕事ではない。故にアプローチの仕方が難しい。

 盛田はうなずきながら「今年で6年目になりますが、全然上手くいかない。いまだに日々勉強中ですよ」と首をひねり、「思いやりの気持ちってどうやれば伝わるのか? 何気ない言動なんだけど、それを自分が受けたらどうなる、自分ならどうする、と考えるのが一番分かりやすい。技術を習得させることより大変ですね」と力説し、任務の重要さとやりがいの大きさにも言及した。

 今シーズンは月、木、金曜日のスクールを受け持つほか、小学校の体育授業サポートや園児、少年団、中学生のクリニック、トップチームのホームゲーム前の行事など多忙だ。さいたま市の事業として、大宮アルディージャと協働で中学校女子の指導も行っている。

「ハートフルの仕事は見事なまでに自分に合っている」と言うが、それは自問自答を繰り返しながら仲間と疑問を提起し合い、さらなる発展を促進する環境が組織にあり、盛田もそういう気概を持ち合わせているからだろう。

 可もなく不可もなく、与えられた職務を全うするだけのコーチではない。いろんな角度からいろんなことを考えている。「中にいると活動のすべてが正しいと思いがちですが、外から見たら『あれ?』って感じることがあるかもしれない。自分も最初はそうだったし、新人コーチは疑問に思う。だからみんなの意見を聞き、改良点などを確認しながら取り組んでいるんです」とアップデートの模索を怠らない。

浦和レッズのハートフルクラブでも盛田剛平は笑顔を絶やさない【写真:河野正】
浦和レッズのハートフルクラブでも盛田剛平は笑顔を絶やさない【写真:河野正】

ユースやトップチームでの指導は「考えていないし、それなら自分でチームを作りますよ」

 浦和にはハートフルクラブのほか、小学生対象のサッカー塾にジュニア、ジュニアユース、ユース、トップチームがあり、女子も中高生年代とトップチームを抱える。

 これまでもハートフルクラブを経てジュニアユースやユース、トップでの指導に携わったコーチはいる。「いずれは違うカテゴリーで教えたい?」と尋ねたら、「自分にはこの仕事が一番合っているから、可能な限りここでずっとやりたい。ユースとかトップは全然考えていないし、それなら自分でチームを作りますよ」と笑いながら質問を一蹴した。

 理屈なしにクラブの理念、落合の哲学に敬慕の念を抱くからだ。

 03年5月14日にスタートした活動は、今年3月までに1万314回を数え、参加総数は114万2107人に上る。20周年を迎えられたのは、クラブのぶれない理念、信念とスタッフ全員の惜しみない情熱があればこそだ。

「去年まで試行錯誤の5年でしたが、何かあると落合さんが助言してくれた。落合さんは子供たちに伝えられるんですよ、答えを持っているから凄い。近い将来の夢? 海外のどこか壮大なスケールの大地で、ハートフルサッカーをやってみたいですね」

 こう言うと、昔から変わらぬ屈託のない笑顔が広がった。(文中敬称略)

※第3回に続く

[プロフィール]
盛田剛平(もりた・こうへい)/1976年7月13日生まれ、愛知県出身。桐蔭学園高―駒澤大―浦和―C大阪―川崎―大宮―広島―甲府―群馬。J1リーグ通算175試合8得点、J2リーグ通算125試合8得点。1999年に浦和でプロデビュー。その後は複数のクラブでプレーし、2017年シーズン後に41歳で現役を引退。19年間のプロ生活にピリオドを打ち、2018年から浦和のハートフルクラブのコーチとして活躍する傍ら、23年3月に念願だったラーメン店を開業した。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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