黄金期の浦和→地方クラブへ「100からゼロに」 あえて選んだJ2…芽生えた「ハングリー精神」

元浦和の高崎寛之氏【写真:河野正】
元浦和の高崎寛之氏【写真:河野正】

プロに鳴り物入りも直面した厳しい世界

 駒澤大学と全日本大学選抜のエースFWだった高崎寛之氏は現役時代、プロ入りに際しJリーグ8クラブから獲得の申し出があった。悩んだ末に加入した浦和レッズを皮切りに9つのクラブでプレーしたが、高い潜在能力を出し切った期間は短い。所属先での“高い壁”、不十分な環境……。悪戦苦闘の当時を振り返る。(取材・文=河野正/全5回の1回目)

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 188センチの大型ストライカーは、主力となった3年生の時に全日本大学選手権を制し、翌年はユニバーシアード日本代表としてバンコクでの大会に出場している。駒澤大学の1学年上のFWには、ともにJリーグに進んだ巻佑樹や原一樹がいた。

 浦和、鹿島アントラーズ、大宮アルディージャなどJ1の8クラブから正式に声が掛かった。茨城県出身とあり鹿島との二択で迷ったが、2007年にアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)を制し、高崎が加入する翌年もACL出場権を獲得していることが決め手となり、浦和を選んだ。

 しかし当時の浦和は観客動員ばかりか、選手層と実力もリーグ随一を誇るクラブであった……。

「ヘディングとスピード、守備の裏を取るプレーには自信があり、やれるんじゃないかと少なからず感じていました。でも周りは日本代表や元日本代表が大勢いて、試合に絡むのが難しいほどすごい顔触れだったんです」

 2008年というと、日本代表の国際Aマッチ56試合23点の高原直泰、アルビレックス新潟で4年連続二桁得点のエジミウソンという腕っこきの点取り屋が入団。浦和はこの年、2トップと1トップ・2シャドーの布陣を採用したが、2トップを編成した試合ではこの2人がコンビを組むことが多かった。

 元日本代表の永井雄一郎や日本代表の田中達也でさえ、先発の機会は少なかった。

 鳴り物入りで加入したが、リーグ戦は2試合で91分、Jリーグヤマザキナビスコナビスコカップも3試合で33分の出場にとどまった。危機感と焦燥感を募らせた高崎は他クラブでの武者修行を志願。声を掛けてくれたJ2水戸ホーリーホックに期限付き移籍する。就任2年目の木山隆之監督の信任も厚く、すぐにレギュラーとなって第6節のザスパ草津戦ではJリーグ初得点を挙げた。

 46試合でチーム最多、リーグ5位の19点、2トップを組んだ同い年の荒田智之が14点をマーク。チーム成績は21勝10分20敗で、創設以来初の勝ち越しを記録した。「僕と荒田にパスが集まったようにチームメートに恵まれ、木山さんも信頼して使い続けてくれたから点を取れた」と感謝する一方、浦和との環境面の違いにびっくりしたそうだ。

「100からゼロに落ちた感覚でした。河川敷の練習グラウンドはボコボコで、クラブハウスがないから家でシャワーを浴びました。練習着は自分で洗濯し、試合で使う用具もすべて自分で管理。少なかった勝利給はアウェーの試合になるとさらに少なくなった」と苦笑い。しかし次の瞬間に顔付きが一変し、「だからハングリー精神が芽生えたんです。水戸の選手はサッカーへの情熱がすさまじく、みんながどん欲に取り組んでいました」と振り返る。

 これだけの結果を残せば水戸が残留、浦和が復帰を要請するのは当然で、他クラブからもオファーが相次いだ。だが新人時代の苦い思いが強かったことで、もう一度浦和で挑戦することにした。

 2010年の浦和はエジミウソンの1トップを基本形とし、2トップも併用。高崎は開幕から21戦連続でピッチに立てなかったが、J1で初先発した大宮との第25節では、前半4分に得意のヘッドで初得点を挙げた。ただし先発もゴールもこの一度限りで、出場5試合に終わる。翌年も15試合(先発5)で2点と振るわず契約満了。浦和での3シーズンは悔いだけが残った。

「水戸で19点取ったし、復帰1年目はそれなりに自信があったけど、メンタルが弱かったので2年目もパッとしなかったんだと思います」

 複数のオファーがあった中から城福浩監督に誘われ、2012年にJ2ヴァンフォーレ甲府に加入する。チームは第19節から最終戦まで24試合連続無敗のJ2記録を樹立し、初優勝と2年ぶりのJ1復帰を果たした。高崎はチーム2位の5ゴールで貢献したとはいえ、32点でJ2得点王に輝いたダヴィには遠く及ばなかった。

 せっかくJ1で戦えるというのに「甲府に来ても結果を残せず、J1でやるのは早いと思った。契約があと1年残っていたが、環境を変えたいと考えていたら徳島に誘っていただいたんです」と語り、あえてJ2の徳島ヴォルティスへ完全移籍する。水戸で植え付けたハングリー精神が、そうさせたのかもしれない。

 序盤戦は先発を続けたが、ドウグラスの調子が上がってくると控えに回り、25試合で2得点と精彩を欠いた。それでも「水戸を除くとどのチームにも強烈な外国人FWがいたので、ゴール前の動き方や推進力など勉強になることが多かった」と前向きに考えた。京都サンガF.C.と争ったJ1昇格プレーオフ決勝では先発し、価値ある2点目をアシストした。

 徳島がJ1初挑戦の2014年の開幕前、高崎は強化担当からFWの序列は下位にあるとの非情通告を受けていた。しかし第3節で初先発すると、7月に移籍したドウグラスや前年チーム首位の14点を挙げた津田知宏に代わるエースとなる。年間3勝5分26敗と断トツ最下位に沈んだチームで1人奮闘し、最多の7点をマーク。クラブからは契約更新を打診された。

 ところが固辞した理由が驚きで、大学4年生の時に進路で逡巡した名門クラブから、びっくり仰天のオファーが届いたのだ。トニーニョ・セレーゾ監督のたっての要望で、鹿島が高崎の獲得に乗り出したのだった。(文中敬称略、第2回目に続く)

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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