元ブラジル代表FWを“配置転換” 捨てたプライド…監督の懇願に「はい、分かりました」

清水で活躍したトニーニョ【写真:アフロ】
清水で活躍したトニーニョ【写真:アフロ】

浦和でのトニーニョは、11試合続けて左右のストッパーをやり遂げた

 1965年創設の日本サッカーリーグ(JSL)は、Jリーグ移行に伴い1991~92シーズンの第27回大会で閉幕した。2連覇を遂げて有終の美を飾ったのが、三浦知良や武田修宏という腕利きのフォワードを擁した読売クラブで、リーグ最多の43点を挙げた。だがこのふたりを抑えて得点王に輝いたのが、新加入の元ブラジル代表FWトニーニョだった。

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 1993年11月に刊行された『日本サッカーリーグ全史』には、最終章を総括する項にこんな記述がある。

「読売の勝因は何といっても得点力のあるトニーニョを連れてきたことだ。特にヘディングの強さは、前年までの読売には見られないものだった。全22試合に出場して18点をマーク、優勝のヒーローとなった」

 ポルトゲーザという強豪クラブにいた1989年、サンパウロ州選手権で得点王を獲得。同年3月にブラジル代表に初招集され、エクアドル代表との親善試合に先発出場した。最初に所属したキンゼ・デ・ジャウーで、2つ年下の三浦知良と巡り合ったのが縁で1991年7月、極東のサッカー弱小国にやってくる。

 最後のJSLで読売の指揮を執ることになったペペ監督は、グアラニ時代に選手と監督の間柄。三浦やラモス瑠偉、ペリクレスが在籍する上、新たなフィジカルコーチにルイス・フラビオが加わるなど、読売がブラジル色の濃いチームであることも日本行きを後押しした。

 中央防犯とのJSLカップ1回戦で5点を奪ってデビューすると、5試合連続の10得点で2連覇に貢献。リーグ戦でも2位の中山雅史(ヤマハ)に3点差をつけ、18点で得点王になった。

 1992年2月のコダック・オールスターでは東軍に優勝をもたらす決勝点を挙げ、4月のゼロックス・チャンピオンズカップでも2戦連続ゴールで読売の栄冠に尽力。186センチの点取り屋は、頭と両足でゴールを積み上げた。

 このまま読売に残り、JSLとJリーグをまたいで得点王を狙うのかと思った。ところが1992年6月に創設メンバーで唯一の街クラブ、清水エスパルスへ転籍したのだ。

 Jリーグ1年目は開幕から3試合連続得点したが、6月2日の第6節で右膝に重傷を負い、手術とリハビリでシーズンを棒に振った。対戦相手は皮肉にも古巣のヴェルディ川崎だった。

 1994年は膝の怪我が完治し、リーグ戦全44試合に先発。得点ランク6位の22点を挙げて復活した。1995年前期も25試合で11点と好調を堅持したが、後期は守備重視の戦術と外国人枠の関係で構想外となる。

 後期が始まる5日前の8月7日、褐色の大男が練習場に現れた。浦和のブラジル人選手第一号が、期限付きで誕生した。読売で長らく運営委員を担い、1993年に浦和へ転職した佐藤英男さんが通訳を務めたことで、トニーニョは上機嫌だった。

「短いタッチでボールをつなぐ浦和の印象はすごくいい。清水よりブラジルに似たサッカーをしているので、これまで以上に良いプレーができそうだ。監督も外国人選手もドイツ人だけど、サッカーの言葉はひとつだからボールがあれば誰とでもコミュニケーションを取れる。いい結果を出せると信じているよ」

 読売での前半戦は三浦との2トップで、後半戦はトップ下を担当。清水ではずっと2トップの後方を任されたが、浦和ではトップ下に入った第2節を除くと、開幕戦から第15節まで福田正博と2トップを組んだ。

 6-0で大勝した横浜フリューゲルスとの開幕戦は、後半30分にフリーキックを蹴り込んで初得点。「後半から中盤に下がり、自分がボールを散らしたことで攻撃が良くなったね」とにやけた。ホルガー・オジェック監督は「選手層が厚くなったことが何よりうれしい」とトニーニョの加入を喜んだものだ。

 後期の26試合にすべて先発して6ゴール。第7節からは3戦連発も記録し、第14節では古巣・清水から先制点をものにした。前半16分に福田の右クロスを得意のヘッドでねじ込んだ。

 清水ではプレシーズンマッチを含めて浦和と9度対戦して5点を挙げていた。日本航空が清水のメインスポンサーだった時期があり、1992年から2005年までユニホームの胸には『JAL』の文字が入った。そこでトニーニョは得点するたび、両腕を地面と水平に大きく広げる“飛行機ポーズ”で喜びを表した。

 だが浦和の親会社が三菱自動車と分かり、3点目を決めたジュビロ磐田戦からはハンドルを握る“自動車ポーズ”に変更。エスプリの精神で観客を楽しませた。浦和はオジェック監督の手腕により、それまでの“ざる守備”が改善され、1995年の総失点は川崎に次いで少ない72点だった。

 その過程では苦難もあり、後期は第9節からの7試合で15失点して7連敗。そこで指揮官は第16節の柏レイソル戦に向け、奇策を用意していた。トニーニョを3バックのストッパーで起用したのだ。守備の要人だった田口禎則が謹慎の身となり、第12節から離脱したからだ。

 背番号11を付けたトニーニョは右ストッパーで先発。前半10分、守りと攻めでいきなり見せ場をつくった。元ブラジル代表のカレカからボールを奪取すると、正確無比なロングパスを右サイドに配給し岡野雅行の先制点につなげた。

 ハイライトは右25メートル付近で、フリーキックを獲得した後半23分にやってくる。ウーベ・バインが入れたボールを頭で完ぺきに捕らえると、車を運転するポーズをつくって大喜び。5-2で快勝し連敗は7で止まった。

「ヘディングシュートは武器のひとつだし、岡野へのパスはフォワードの気持ちになって出したんだ。自分は生まれたときからフォワードだったからね。ストッパーは初めてだけど監督に頼まれたから『はい、分かりました』ってすぐに答えたよ」

 リーグ戦では最終節まで11試合続けて左右のストッパーをやり遂げた。チームは8勝3敗と持ち直し、年間4位に大躍進したのだった。ブラジル代表歴にJSL得点王というストライカーの自尊心は傷ついたろうが、チームの危機に身をささげて尽くした。

 浦和にはこれまで24人のブラジル人選手が在籍したが、ここまでプライドを捨てて献身した本物の勇者は、トニーニョとロブソン・ポンテくらいではなかったか。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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