入国翌日から即提供「言い訳にならない」 孤独な仕事でも…代表MFをキッチンから支える“お母さん”

日本代表の田中碧【写真:徳原隆元】
日本代表の田中碧【写真:徳原隆元】

奥隅知里さんは田中碧の管理栄養士兼シェフを務める

 移籍は急に決まるものだ。田中碧がドイツからイギリスへ渡った時も、そうだった。奥隅知里さんはすぐに準備を開始し、リーズへと向かった。そして、入国した翌日から、食事の提供が始まった。新しい国、知らない街、見慣れない食材ーー。それでも、同じクオリティで出し続けなければならない。誰も「大丈夫?」とは聞いてくれない場所で、この仕事は成り立っているのだ。(取材・文=林遼平/全3回の3回目)

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 2023年の夏、田中はデュッセルドルフから当時チャンピオンシップのリーズへと移籍を果たした。契約を更新することが決まっていた奥隅さんは、ビザや住居の手続きでタイムラグはあったが、入国した翌日から食事の提供を始めた。

「一般的には『そろそろ生活には慣れた?』みたいなのあるじゃないですか。そういうのは言い訳にならないんです」

 手に入る食材が変わる。街のどこに何があるかも分からない。スーパーも、マーケットも、何が手に入って何が手に入らないかも、全部未知の状態から始まる。それでも、同じクオリティで食事を出し続けなければならない。

「慣れる、慣れないの問題ではないです。最初からできないといけない」

 体調を崩すことも許されない。選手に移してしまったら終わりだからだ。

「選手にシーズンを通してほぼ毎日ご飯を出すので、栄養士やシェフは自分が体調を崩してはいけない。休むという前提がそもそもありません」

 奥隅さんはそれを「お母さんみたい」という言葉で表現する。お母さんが元気でいることは、家族にとって当たり前の前提だ。この現場でも、栄養士が万全であることはそれと同じで、誰かが気にかけてくれるものでもない。だからこそ、何より環境に素早く適応する力が求められるのだ。

 そして、この仕事の孤独さには、もう一つの側面がある。

「選手は、やはり毎日練習に行けばチームメイトがいて、チームのスタッフがいて、困ったことがあれば頼れる人がいると思うんです。だけど、私はそれもないので。誰も助けてくれる人がいないところに行って、そのパフォーマンスを出し続けなければならない。それはやっぱ難しいことだなと思います」

 選手の仕事に関わる話は、個人情報として外に出せない。現地に友人もいない。時差があるから家族にも気軽に連絡できない。完全な閉鎖空間の中で、一人でやり切るのは簡単なことではない。

「全部、自分で解決するしかないですから。栄養士やサポートしてる人には、バイタリティーや生きていく力、生命力みたいなものが“あるといい”ではなく、マストで必要だと思います。本当に試されているなと感じます」

 これらの言葉には、単に健康であること以上の意味が込められている。自分自身のメンタルとパフォーマンスを一定に保ち続けるハンドリング能力こそが、異国の地で生き残るための最低条件なのだろう。

 そういった状況下でサポートを続けてきたことへの自負はある。ただ、自分がすごいとも思わないし、何でもできるとも思わない。積み重ねてきたことはある、それは事実だ。だからといって、それが自信という形で自分の中に蓄積されるわけではないと彼女は言う。

「今の仕事や今の選手への関わり方は、自分がずっと夢としてやってきたわけではありません。自分ができることを積み重ねていってたら、今こういう仕事や働き方につながったという感じです。スポーツ栄養士だから、こういう能力を身につけるべきだとか、そういうのがある人でないとできない、とは思わないですね」

 同じ仕事を目指す若い世代に対しても、特定のスキルを身につけるべきだとは言わない。大事なのは、自分がその仕事を楽しいと思えるかどうかだという。栄養管理だけを担う人もいれば、調理だけを担う人もいる。データを読むのが好きな人もいれば、感覚でサポートするのが得意な人もいる。そこに正解はない。

「自分の強みとワクワク、心躍る楽しさを持てるところに出会えるといいのかなと思います」

 今後のビジョンについて尋ねると、奥隅さんはゆっくりと言葉を選んだ。次にこうしてやるぞという計画が、彼女の中にあるわけではない。ただ、人として成長し続けていきたいという感覚は、ずっとある。

「海外での数年間は、すごく自分が人間として成長した部分も大きいと思います。栄養士としてのスキルだけではなく、そういう人としての“強み”みたいなのを発揮できる方向になっていくんだろうなと思っています。今の自分と、同じ知識量の過去の自分だと、絶対今の方が選手にいろいろな意味で良い影響をもたらせるのかなと思うので」

 どこを目指すかより、今をどう生きるか。奥隅知里という人間の軸は、そこにあるように見えた。食材が変わっても、国が変わっても、翌日から出し続ける。誰も助けてくれなくても、自分で解決する。その先で選手の体とコンディションを支え、キッチンに立つ。その積み重ねが、確かに続いているのである。

(林 遼平 / Ryohei Hayashi)



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林 遼平

はやし・りょうへい/1987年、埼玉県生まれ。東日本大震災を機に「あとで後悔するならやりたいことはやっておこう」と、憧れだったロンドンへ語学留学。2012年のロンドン五輪を現地で観戦したことで、よりスポーツの奥深さにハマることになった。帰国後、サッカー専門新聞『EL GOLAZO』の川崎フロンターレ、湘南ベルマーレ、東京ヴェルディ担当を歴任。現在はフリーランスとして『Number Web』や『GOAL』などに寄稿している。

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