苦境の浦和に帰還も「お前は4番手」 恩師の言葉で奮起…進化のきっかけは「僕だけの特別メニュー」

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:永井雄一郎(ザスパ群馬アカデミーダイレクター兼U-18監督)第4回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。ドイツから帰国した永井雄一郎は、再び浦和レッズでの戦いを選択した。ハンス・オフト体制ではFWの4番手からスタートしたものの、特別メニューをこなして課題を解消し、チームでの地位を確立。A代表ではデビュー戦で決勝ゴールを決めるなど、そのキャリアは全盛期を迎えつつあった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の4回目)
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ワールドユース選手権(U-20ワールドカップ)を準優勝で終えた永井雄一郎は、浦和に帰還した。ドイツに渡ったことで体をぶつけ合うプレー自体厭わなくなったが、次のステップに進むタイミングが訪れていた。
「ドイツでフィジカル的な部分は当然プラスになっていましたが、ちょっと粗削りになっていた感覚がありました。ワールドユースのメンバーの技術を、一緒にプレーして近くで体感していくと、自分も求めていくべきだなと思いましたね。あとはやっぱりレッズが低迷していたので、チームのために力にならなきゃいけないと考えました」
レッズにはナイジェリアで一緒に戦った小野伸二もいる。自分の技術をもっと上げていく必要性をワールドユースで感じ取った。と同時に、ドイツの自宅のファクスには名古屋グランパスに8点を奪われて大敗した試合の新聞記事が送られてくるなど、苦境に立たされていることもずっと気になっていた。
復帰後はレギュラーとして定着するものの、クラブはJ2降格の憂き目に遭う。だが強いレッズに生まれ変わる分岐点ともなり、そのストーリーに永井は欠かせない存在となっていく。
永井の飛躍を語るにおいて、2002年に監督に就任した元日本代表監督のハンス・オフトは外せない。
プロになってからの永井は、サッカーを「仕事」として捉えていた。「楽しむ」「サッカーを追求する」ではなく、どうすれば試合に出続けて、勝利に貢献できるか、ばかりを考えた。攻撃陣には外国籍選手が並び、彼らにとって良きパートナーになるよう努めた。そのうえで自分の個性をプラスしていくスタンスであった。
だがオフト体制になると出番が激減する。「いつでも監督室のドアは開けておく」と選手との対話に積極的だった指揮官に、どうして試合に出られないのかをストレートに尋ねた。するとストレートに答えが返ってきた。
「はっきりと、『お前がFWの4番手だからだ』と言われました。エメルソン、トゥット、(田中)達也、そしてお前なんだ、と」
4番手の扱いなら試合に出ることは難しいと考えて、強化部に移籍を訴えた。だが認められず、移籍の道は閉ざされた。ただオフトは単に突き放したわけではなかった。プレーが向上するために、何が必要なのかをずっと考えてくれていた。
「僕は走っても、全然心拍数が上がらないタイプでした。だからずっと走れる。でもオフト監督が出した結論は、心拍を上げられないとプレーの強度が上がっていかない、と。そこから僕だけの特別メニューが始まったんです」
全体練習後に野崎信行アスレティックトレーナーのもとでエアロバイクをマックスの出力で漕ぐトレーニングを何セットもこなすのが日課になった。無酸素状態が続くため、気持ち悪くなって吐いたこともしばしば。ただ、強制的に心拍数を上げていくトレーニングにより、段々とプレー強度が上がっていくのは実感できた。
4番手からの脱却が待っていた。エメルソン、トゥットとの3トップはレッズの新たな看板になり、永井も躍動した。
「オフトさんは、はっきりとモノを言うとともに、自分がどうしたらいいかを考えてもらった。それはとても嬉しかった。だから僕も指導者の立場になって、はっきり伝えるようにしています。もちろんそれで終わるのではなく、彼のためになることをしっかり考えていく。オフトさんから教えてもらったことです」
“本物のアウェー”韓国戦で決めた初出場初ゴール
チームでの活躍が認められ、翌2003年4月に韓国遠征を行う日本代表メンバーに追加招集された。ソウルワールドカップ競技場において韓国代表との一戦。親善試合とはいえ、ライバルとの一戦は異様な雰囲気に包まれていた。
「韓国サポーターがみんな足踏みして音を鳴らして、ベンチにいると地鳴りみたいに響いて押し寄せてくる感じがありました。レッズの試合はアウェーであってもホームの雰囲気をサポーターがつくってくれていたので“本物のアウェーだな”と思ったことを覚えています。この試合に出たいなと思いながら見ていました」
フィリップ・トルシエ体制の時にA代表に一度招集されているが、ベンチ入りは果たせていない。スコアレスのまま迎えた後半31分、中山雅史に代わってピッチに入る。
終了間際だった。
左サイドの奥大介から裏にパスが送られ、永井がスピードを活かして追いつく。ペナルティーエリア内に入り、切り返して1人をかわして前へ。そのボールが大きくなって相手がスライディングしたところに永井の足が当たり、ゴールに吸い込まれていった。初出場初ゴールが決勝点となり、ジーコに初勝利をプレゼントした。
「せっかく出場できたんだから、何かは残したい。大さん(奥)なら走ったら(ボールが)出てくると思いました。切り返しから相手が来て、簡単にクリアされちゃダメだと思ってブロックして……時間が止まったようなブロックシュートになりました。みんなからは『美味しいところ持っていったな』と言われましたよ。でもジーコ監督からは『キレイなゴールではないけど、最後の一歩まで詰めていたからゴールにつながった。すごくいいことだ』と声をかけてもらいました」
ゴールは嬉しかったが、「手放しで喜べない性格」ゆえにゴール以外のプレーを振り返ってみると、まだまだと思えた。
新聞の1面に「永井」の文字が踊り、反響が大きかったのは確か。勘違いすることはないが、オフトは殺到するメディアのインタビューを規制するようにクラブに働きかけている。「彼はまだその立場にない」が理由であり、永井も十分に理解した。A代表のメンバーに入れたことで、逆に気が引き締まる思いがした。
ジーコジャパンには引き続き招集されたものの、フランスで開催された同年6月のコンフェデレーションズカップでグロインペイン症候群を発症して離脱。以降は代表から遠ざかることになってしまう。ケガから復帰後は再び調子を上げていき、J1でキャリアハイの8ゴールをマークする。厳しくも温かいオフトの指導によって、永井のポテンシャルが開花しつつあった。(文中敬称略/第5回に続く)
■永井雄一郎 / Yuichiro Nagai
1979年2月14日生まれ、東京都出身。三菱養和SCユースから97年に浦和レッズに加入し、1年目からリーグ戦30試合出場3得点を記録。同年のワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)にも出場した。カールスルーエ(ドイツ)への期限付き移籍を経て99年は浦和に復帰すると、2度目のワールドユース選手権出場を果たし、日本の準優勝に貢献。2003年にはA代表にデビューし、初得点も記録している。浦和ではJ1優勝、AFCチャンピオンズリーグ優勝などを経験。09年の退団以降は、清水エスパルス、横浜FC、ザスパクサツ群馬(現・ザスパ群馬)などのJリーグクラブのほか、アマチュアチームを渡り歩き、選手兼監督としても活躍。26年からはザスパ群馬のアカデミーダイレクター兼U-18監督を務めている。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。












