「ボールだけを見ろ」ジーコの助言が導いた奇跡 伝説のPK戦…川口能活に神が宿った夜

ヨルダンとのPK戦で驚異的なセーブを見せた川口能活氏(中央)【写真:ロイター/アフロ】
ヨルダンとのPK戦で驚異的なセーブを見せた川口能活氏(中央)【写真:ロイター/アフロ】

日本人GK初の欧州挑戦「GKというポジションについて深く考えさせられた」

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。現役時代の川口能活は幾度となく神懸かり的なセーブを見せてチームを救ってきたが、ファンの間で今も語り草となっている試合と言えば、中国で開催された2004年アジアカップ準々決勝、ヨルダンとのPK戦だろう。スタジアムに響くブーイングのなか、「決められたら終わり」の状況でなぜ奇跡は起きたのか。日本サッカー史に刻まれる伝説のPK戦を、本人があらためて振り返る。(取材・文=二宮寿朗/全6回の5回目)

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 川口能活に神が宿った特別な夜であった。

 中国で開催され、強い反日感情によって日本代表にブーイングが吹き荒れた2004年のアジアカップ。ヨルダン代表との準々決勝はPK戦に突入し、先攻の日本は2人続けて失敗した。中村俊輔、三都主アレサンドロといずれもぬかるんだピッチに足を滑らせたことで、キャプテンの宮本恒靖が主審にエンド変更を訴え、認められたところから反撃が始まろうとしていた。

 ヨルダンは2人続けて成功し、日本が崖っぷちにある状況に変わりはなかった。意外にも川口はA代表で初めてのPK戦だった。1、2本目と相手に逆をつかれ、PK戦の感覚をまだ取り戻せないでいた。

「かつてJリーグや天皇杯でPK戦を数多く経験していたので自信はあったんですよ。でもいざ始まってみると2本目まで全然反応できていない。これはまずいなって正直思っていました。3本目も決められてしまったけど、ただ地面をしっかり蹴れていたんですよ。ここからです、吹っ切れたのは」

 川口の目つきが変わっていた。

 ヨルダンの4人目に対して川口はコースに反応して横っ飛びで弾き、5人目は枠を外させる。これで3-3となってタイに持ち込み、6人目のキックをまたも弾き飛ばし、7人目のキックはポストに直撃。4人連続失敗というミラクルを起こしたのだった。

「(相手のキックより)先に動いたら終わりだなと感じました。逆を取られてしまう可能性も高くなる。ボールに反応しなければ無理だなと思って、割り切りました。ジーコさんからはPK練習の際に『ボールをよく見ろ』とアドバイスされていました。ボール以外を気にしてしまうと、惑わされる。だからボールだけを見て、絶対に反応してやろう、と」

 コンマ何秒の世界。反応がほんのわずかでも遅れてしまえば命取りになる。極度の集中がそれを可能とし、相手をひるませた。

 PK戦に入ると、スタンドからのブーイングが一層強まった。これも川口にとってはスイッチが入りやすいシチュエーションだったという。

「あれだけの観客が入って、国歌をブーイングされるという経験は過去に2度ありました。一つは1997年のアジア最終予選、アウェーのウズベキスタン代表戦。もう一つが、1999年のコパ・アメリカ、パラグアイ代表戦です。この2試合はスタンド全体から殺気を感じたものです。でもこのアジアカップの完全アウェーは対戦相手からではないので、今まで経験したことがなかった。

 でもスタンドのあの雰囲気が逆に奮い立たせてくれたし、エネルギーに変えていくことができました。スイッチが入りやすい状況ではあったかなと思いますね。集中できた、の一言に尽きます。いろんなものが同時に見えていたし、ブーイングも全然耳に入ってこなかった。最後はもうやられる気がしませんでした」

 レバノンで開催された前回のアジアカップでもサウジアラビア代表との決勝戦で“神セーブ”を連発して優勝に貢献している。大一番に強い川口の威風堂々。ヨルダンからすればきっとゴールが小さく見えたに違いない。

 準々決勝を突破した日本は準決勝でバーレーン代表を、決勝で中国代表を下して大会2連覇を達成する。大会前までライバルである楢﨑正剛のサブという立場が続いていたものの、この活躍を経てジーコジャパンの主力GKとなっていく。

2004年アジアカップ当時に抱えていた危機感について明かした【写真:増田美咲】
2004年アジアカップ当時に抱えていた危機感について明かした【写真:増田美咲】

日本人GK初の欧州挑戦「GKというポジションについて深く考えさせられた」

 川口自身もあのヨルダン戦同様、崖っぷちにあった。

 日本人GKとして初めて欧州でプレーすることになったが、2001年10月に移籍したイングランド2部ポーツマスでは厳しい境遇にさらされた。

 FAカップで4部チームにジャイアントキリングを許し、クラブのオーナーから帰国を促されている。契約が始まったばかりなのに、だ。リザーブチームでの練習すら許されず、ユースで練習しなければならない屈辱にも耐えた。それでもストイックなまでにトレーニングに勤しむ姿勢を崩さず、寄り添ってくれるGKコーチの存在が前を向かせた。出場できなくとも、GKとして“幅”を広げている実感を持つこともできた。

「雰囲気もみんなの調子もいいから、そのなかで練習していくと自分のスキルが上がっていく感触がありましたね。イングランドに来て良かったなと思えたのは、GKというポジションについて深く考えさせられたこと。周りのGKを見ても、間のつくり方とかチームに安心感を与えていることをまず大切にしていました。スキルだけじゃないものをここで学ぶことができました」

 02-03シーズン、チームは優勝してプレミアリーグ昇格を決める。控えGKの立場を覆すことはできなかったものの、シーズン最終戦で後半から起用された。その45分間にすべてを注ぎ込み、無失点に封じている。サポーターからの「ヨシコール」がたまらなく嬉しかった。

 次のチャレンジに進むべく03年夏にデンマーク1部のノアシェランへ移籍。だがここでもポジションを奪えず、リーグ戦の出場は8試合にとどまった。日本代表でも出番がないだけに、危機感を募らせていたときにアジアカップの招集レターが届いた。欧州組ではレッジーナでプレーする中村俊輔と2人のみ参加となった。楢﨑がケガでメンバー入りが見送られたため、川口にとっては最大のチャンスだった。

「自分にとって2シーズン目に入るノアシェランのキャンプに行かないとなると、レギュラーになるのは難しくなります。かつ、アジアカップで結果を残さないと日本代表にも今後きっと呼ばれなくなる。そうなったら自分のキャリアが終わる可能性だってあります。相当な覚悟を持ってこのアジアカップには臨んだつもり。それとともに久しぶりに日本代表の試合に、それもタイトルが懸かる大会に出られることの喜びもありました。いつものように、プレッシャーとワクワクその両方が僕のなかに共存していました。だからヨルダン戦のPK戦も、どこか心にゆとりがあったんですよね。ここで自分が止めて勝利に貢献できたらヒーローになれるんじゃないかって(笑)」

 絶体絶命のあのPK戦は自分の立場とも重なっていた。だからこそ、ゆとりを持って究極の反発力を手にすることができたのである。(文中敬称略/第6回に続く)

■川口能活 / Yoshikatsu Kawaguchi

 1975年8月15日生まれ、静岡県出身。清水商業高校(現・清水桜が丘高校)から94年に横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に加入し、2年目の95年よりレギュラーに定着。1stステージ優勝と年間優勝に貢献し、Jリーグ新人王を獲得した。2001年にはポーツマス(イングランド)に移籍し、日本人GKとして初めて欧州でプレー。ノアシェラン(デンマーク)を経て05年にジュビロ磐田でJリーグ復帰を果たすと、13年まで在籍。FC岐阜、SC相模原でプレーし、18年のシーズン終了とともに現役を引退した。日本代表ではGKとして史上最多となる116試合に出場。W杯は1998年フランス大会から2010年南アフリカ大会まで4大会連続でメンバーに選出された。引退後は指導者の道に進み、23年より磐田のGKコーチを務めている。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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