「勝てばW杯」の死闘で…相手エースへ見せた“気遣い” 守護神が平常心を保てたワケ

1998年W杯で日本代表GKとして初出場を果たした川口能活氏【写真:ロイター/アフロ】
1998年W杯で日本代表GKとして初出場を果たした川口能活氏【写真:ロイター/アフロ】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:川口能活(ジュビロ磐田GKコーチ)第4回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。様々な苦難やプレッシャーを乗り越え、“ジョホールバルの歓喜”でつかんだ初のW杯出場。フランスの地では結果的に3連敗を喫することになったが、川口能活は正GKとして世界的名手たちと対峙し、より高い壁への挑戦に心を踊らせるのだった。(取材・文=二宮寿朗/全6回の4回目)

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「あれほど強烈に感じたプレッシャーは、自分のサッカー人生では一番ですね」

 川口能活がそう振り返るのは、フランス・ワールドカップ(W杯)出場を懸けて中立地マレーシア・ジョホールバルでイラン代表との一発勝負に臨んだアジア第3代表決定戦である。

 1997年11月16日、ジョホールバルには悲願のW杯初出場を見届けようと、日本からおよそ2万人のファン・サポーターが駆けつけていた。1週間前、カザフスタン代表に勝利して第3代表決定戦進出を決めたあの国立競技場の雰囲気に似ていると川口は感じていた。

「大勢のサポーターが来てくれたことは大きな力になりましたね。イランには胸を借りるつもりで臨みました。アジア最高のストライカーと言われていたダエイに、アジジ、バゲリと攻撃陣にタレントが揃っていて、アジア最強はイランだという認識でしたから」

 中山雅史の先制ゴールで前半を1-0とリードして折り返しながらも後半にアジジとダエイにゴールを奪われてひっくり返されてしまう。窮地に追い込まれたものの、川口は平常心を保っていた。

「最終予選そのものが苦しかったですからね。次こそW杯に行かなきゃいけないというなかでの戦いは、目の前の試合に勝つことだけしか考えられなかった。いろんな免疫ができていたから、あのプレッシャーのなかでリードされても別に慌てることもありませんでした」

 いろんな免疫――。

 最終予選そのものが強烈なプレッシャーの連続であった。加茂周監督が解任され、監督経験のない岡田武史コーチのもと団結を図っていく。だが10月、UAE代表とのホームゲームが引き分けに終わって自力突破の可能性が消滅すると、一部のサポーターが暴徒化してチームバスが深夜まで動けない事態が発生した。紆余曲折を経て、このジョホールバルにたどり着いていた。

 三浦知良、中山から2トップを城彰二、呂比須ワグナーに入れ替え、その城が同点ゴールを奪う。延長に入っても一進一退の攻防が続く、まさに死闘。そして延長後半13分、川口が冷静な対応を見せる。クロスボールに飛び込んできたダエイに対し、前に出てシュートコースを消した。左足から放たれた一発はバーの上を超える。座り込む相手のエースに対して「大丈夫か?」とばかりに頭を撫でるシーンは、若き守護神の落ち着きぶりを何よりも表していた。

「(ダエイの頭を撫でたのは)自分の余裕を見せておくというところもあったとは思います。極限のプレッシャーのなかでそういうことができたのは、この状況を心のどこかで楽しめている自分がいたんですよね。不安や緊張と一緒に、僕のなかで同居しているものでもありました。

 天気だって雨が延々、続くわけじゃない。天気も、物事も、試合の状況も変わっていく。だからジョホールバルでもあのプレッシャーのなかで“勝てばW杯だ”って、どこかワクワクというか楽観的でもあった。そうなると目の前のことにすべてのエネルギーを注いでいくことが自分は得意なのかもしれません」

 この直後に岡野雅行の延長Vゴールが決まり、死闘にケリがついた。川口の落ち着きがチーム全体に波及したとも言える。

川口能活氏がW杯初出場までの激闘の日々を振り返った【写真:増田美咲】
川口能活氏がW杯初出場までの激闘の日々を振り返った【写真:増田美咲】

世界屈指のストライカーは「一枚も二枚も上だった」

 どんな状況でも楽観的に、どこか楽しんで。常に100%を注ぐ練習の積み上げという土台があってのものではあるが、プレッシャーのかかる試合の場数を踏んできたからこそ、自分らしい「付き合い方」を会得することができた。

「イラン戦の試合の流れは、最終予選の2か月の流れとまったく一緒でした。勝ってスタートして韓国戦の敗北、そして加茂さんの解任があって岡田さんのもと最後は2連勝しました。イラン戦も先制しながら逆転され、追いついてから最後は岡野さんのゴールでしたから。チームとしてたくましくなったおかげで勝てたのかな、と。あのプレッシャーに打ち勝ってW杯に出場できたからこそ、僕はどんな時でも“何とかなる”と思えるようになりました」

 W杯出場を決めたその日の夜、ぐっすりと眠れたと思ったら1時間しか寝ていなかったという。解放されたプレッシャーが、いかに大きかったかを物語るエピソードでもある。

 大きな壁を乗り越えたら、また新しい大きな壁。

 初めて出場したフランスW杯。アトランタ五輪の経験を踏まえて心の準備も整えたが、グループステージ初戦のアルゼンチン代表戦で初めてそのピッチに立つと「これがW杯か」と足から重みが伝わってきた。

「子供の頃、W杯は“観るもの”であって、まさかその舞台に立てるなんて思いもしなかった。バティストゥータ、クラウディオ・ロペス、シメオネ、ベロン、サネッティ、オルテガ……今考えても凄いメンバーですよね。テレビでしか観たことのないような選手とこの舞台で試合をやれる喜びというのも、同時に感じていました。自分たちの力がどれぐらい通用するのかな、とプレッシャーよりもそういう期待感のほうが強かったかもしれません」

 前半28分、ゴール前でフリーになったガブリエル・バティストゥータに対して素早く詰めたものの、ボールを浮かされて決められてしまう。相手が一枚も二枚も上だった。

「バティストゥータのプレー映像を見ると、強烈なシュートばかりでした。頭のなかにそれが入っていたので体を投げ出していくことでシュートを防ごうとしたら、僕から見て右のスペースが空いていたのを見て足先で浮かしてきた。ゴールを奪う術を知っているなと、感じたことを覚えています」

 20本以上のシュートを浴びながら、ゴールを決められたのはその1本だけ。しかしここを止められるかどうかが、勝負を分けることになる。アルゼンチンに0-1で敗れた後、クロアチア代表、ジャマイカ代表にも敗れて3連敗を喫した。簡単に勝たせてくれる舞台ではないことを思い知った。

 悔しい気持ちが心のなかに渦巻いた。と同時に新しく踏み入れた「世界」に、アジアを超えてたどり着いたとてつもなく大きな壁に、心の底からワクワクする自分がいた。(文中敬称略/第5回に続く)

■川口能活 / Yoshikatsu Kawaguchi

 1975年8月15日生まれ、静岡県出身。清水商業高校(現・清水桜が丘高校)から94年に横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に加入し、2年目の95年よりレギュラーに定着。1stステージ優勝と年間優勝に貢献し、Jリーグ新人王を獲得した。2001年にはポーツマス(イングランド)に移籍し、日本人GKとして初めて欧州でプレー。ノアシェラン(デンマーク)を経て05年にジュビロ磐田でJリーグ復帰を果たすと、13年まで在籍。FC岐阜、SC相模原でプレーし、18年のシーズン終了とともに現役を引退した。日本代表ではGKとして史上最多となる116試合に出場。W杯は1998年フランス大会から2010年南アフリカ大会まで4大会連続でメンバーに選出された。引退後は指導者の道に進み、23年より磐田のGKコーチを務めている。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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