練習態度が悪すぎて体育館掃除「一番ダサい」 高校で四軍→ブンデスへ…20歳の反骨心

塩貝健人は國學院久我山で「四軍」を経験した
「あの頃の自分は、今見たら一番ダサい」。ヴォルフスブルクで堂々と胸を張るストライカーは、自らの過去をそう切り捨てた。横浜FCジュニアユース時代、試合に出られない不満を指導者にぶつけ、態度の悪さから一人体育館の掃除を命じられていた少年。それが、数年前までの塩貝健人の真実だ。中学での昇格見送り、高校入学時の四軍スタート。エリート街道から最も遠い場所にいた彼を、ブンデスリーガのピッチまで押し上げたのは、ただ一つ、バカにした奴らを黙らせたいという反骨心だけだった。(取材・文=林遼平/全4回の2回)
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慶應義塾大学から横浜F・マリノスの特別指定選手になり、そこからオランダのNECナイメヘン、そしてブンデスリーガへ。一見すれば、華やかなエリート街道を歩んできたように見えるが、時計の針を数年戻せば、そこには全く異なる景色が広がっている。
塩貝のサッカー人生の原点は、中学生時代に遡る。横浜FCのジュニアユースに所属していた塩貝は、全くと言っていいほど試合に出られなかったという。
「中学時代は本当に試合に出られなくて。それこそ韓国遠征から外れた3人のうちの1人でした。それなのに、どこか偉そうで、監督やコーチのせいにして、練習もちゃんとやらない。今思えば一番ダサい存在ですよね。練習態度が悪すぎて体育館掃除をさせられていたこともあります。実力もないのに態度だけは大きくて。地獄ですね(苦笑)」
当時の自分を「ダサい」と一蹴するが、その挫折が彼の中のスイッチを入れた。横浜FCユースへの昇格は見送り。最初は早稲田実業や法政、桐蔭学園を目指そうとしたが、サッカーの実績不足やセレクションでの落選が続き、入学は叶わず。チームメイトたちがエリートコースを歩む中、彼はひとり、國學院大學久我山高校への進学を選ぶことになった。そうして、誰とも違う道に進んだ塩貝。そんな彼の心の底にあったのは、純粋な「見返してやる」という怒りだった。
「中学時代の経験は今も生きています。中学時代の時は思っていた以上に頑張れてなかったなというところがいっぱいあった。バカにされていたと思うんですよ。だからこそ、絶対に勉強でもサッカーでも上に行ってやろうと思って。その思いというのは、やっぱり自分の原点としてあると思います」
しかし、高校に入ってもすぐに光が当たったわけではない。強豪・國學院久我山でのスタートは、トップチームからはほど遠い「四軍(地区トップリーグ)」だった。
「高1の終わりまで一番下にいました。スポーツ推薦で入ったのに、T3(東京都3部リーグ)からさらに下の地区トップに落とされた。その時に完全にスイッチが入りました。ムカつきすぎて(笑)。チーム練習が終わった後、毎日公園に行って夜までアジリティトレーニングをして。その日からオフの日も休んだ記憶はありません。朝はたぶん禁止されていたと思いますけど、学校でシュート練習をして、昼休みは全部筋トレに充てていました」
その姿は、周囲から見れば驚きだったかもしれない。だが、塩貝にとってそれは生き残るための生存戦略だった。
「もともと中学までは体が小さくて、キーパーまでかわしにいくようなプレーをしていたんです。でも全然点が取れなかった。高校になって、兄貴と一緒に筋トレを始めて、身長も178cmくらいまで伸びて、そこから体が劇的に変わった。足が速くなって、体もゴツくなった。最初はゴツいだけで使い方がわからなかったけど、体の預け方の練習などをして使い方も覚えて。そうなってからはフィジカルだけは高校で全く負けなくなりました」
「四軍」にいた少年は、自らに課したハードワークによって、わずか1年後にトップチームへと駆け上がる。そして、自身の人生を変える最大のターニングポイントである、憧れだった全国高校選手権へと辿り着く。
國學院久我山というチームは、伝統的にパスをつなぐサッカーを重んじる。だが、高校3年時にキャプテンに就任した塩貝は、そこに異質なエネルギーを持ち込んだ。
「久我山って、もともと筋トレをする習慣があまりなかったんです。でも僕は『筋トレしなきゃ勝てない』と言って、キャプテンとしてみんなを無理やり連れて行きました。走り込みもやらせたし、スパルタでしたね。もちろんついてこない選手もいましたけど、勝つためには必要だと思っていた」
その執念が結実したのが、選手権予選の帝京高校戦だ。もともと、当時、東京で最強と謳われ、インターハイで準優勝していた帝京に敗れたことが筋トレ特訓のスタートになっているのだが、そんな相手とのリベンジマッチに燃えないはずがなかった。
「あの試合で帝京を倒して全国を決めた。それが僕の人生のターニングポイント。そこからメディアにも注目されるようになって、高校選抜にも呼ばれて、トントン拍子にここまで来ちゃった感覚があります」
塩貝の話を聞いていると、彼が歩んできた道は決して平坦ではなかったことがわかる。順調にいけばいくほど、何かしらの壁にぶつかり、その壁を常に乗り越えてきた。そうして、塩貝は一つずつ階段を登ってきたのだ。
「僕は挫折を求めにいくタイプ。うまくいきすぎると逆に怖いんです。例えば、今年の9月くらいにオランダで4試合くらい出られなかった時期がありました。あの時はもうメンタルがどん底まで落ちて『日本に帰りたい』とまで思いましたよ。でも、そこで落ち切った後に、代理人と一緒に特訓したりして、一つひとつの積み重ねのおかげでフェイエノールト戦で2点を取ることができた。そういう下から上に上がっていく時のパワーが、自分を成長させてくれるなと思います」
彼にとってヴォルフスブルクでの苦境もまた、心地よい挫折の一つに過ぎない。
「ストーリー性を大事にしているんです。前回ダメだったけど、今回は決めた。その跳ね返りが自分は好きなんです。そこを楽しんでるわけではないですけど、ダメなところからいい方に行くのが好き。だから、上手くいっている時こそ、よりハードワークしないといけないと思える。今の状況も積み重ねがあってこそ。そこの心持ちは自分の一つのポリシーでもありますね」
過去の屈辱を燃料に変え、壁を越えるたびに一段上へ。そのサイクルを繰り返してきた塩貝が、次に選んだのは”逃げ道を作らない”という決断だった。横浜F・マリノスという安定した環境を捨て、海を渡る。その選択には、これまでの挫折と反骨心が色濃く滲み出ている。
「ここで満足してやめたら終わり。続けていかなければダメだと思っている」
言葉通り、この男は常に自らをより厳しい場所へと追い込んできた。では、なぜ横浜FMを離れ、オランダへと渡ることを選んだのか。その決断の裏側には、塩貝健人という人間を形作る、もう一つの哲学があった。
(第3回に続く)
(林 遼平 / Ryohei Hayashi)

林 遼平
はやし・りょうへい/1987年、埼玉県生まれ。東日本大震災を機に「あとで後悔するならやりたいことはやっておこう」と、憧れだったロンドンへ語学留学。2012年のロンドン五輪を現地で観戦したことで、よりスポーツの奥深さにハマることになった。帰国後、サッカー専門新聞『EL GOLAZO』の川崎フロンターレ、湘南ベルマーレ、東京ヴェルディ担当を歴任。現在はフリーランスとして『Number Web』や『GOAL』などに寄稿している。




















