記憶にも記録にも残る”稀有”な日本人 代表コンビを手玉…天が二物を与えた変幻自在のドリブラー
浦和で数多くのゴールを決めたFW永井雄一郎

プロ野球では慣用的に「記録より記憶に残る選手」という表現を使うが、不世出のスーパースター長嶋茂雄のように「記録にも記憶にも残る選手」はそう多くない。これを浦和レッズに在籍した選手に当てはめてみると、その筆頭格はFW永井雄一郎ではないだろうか。男前としても知られ、天が二物を与えた変幻自在のドリブラーだった。
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Jリーグ5年目の1997年に浦和の一員となった。高卒の新人は永井、田畑昭宏、河合竜二、三本菅崇の4人だが、全国的に名の通った選手はいなかった。
ところが4月12日、浦和駒場スタジアムで行われた横浜マリノスとのJリーグ開幕戦に集まった観衆は、背番号35のしなやかなドリブルに腰を抜かした。
永井は岡野雅行と2トップを形成し、田畑は元西ドイツ代表のギド・ブッフバルト、元フランス代表のバジール・ボリとともに3バックの左ストッパーで先発。高卒の新人がJリーグ開幕戦に先発するのは、浦和では初めてとあって耳目を引いた。
なかでも18歳1か月29日という、クラブ最年少デビューを果たした永井は、井原正巳と小村徳男の日本代表センターバックを軽やかなドリブルで手玉に取り、約2万人の観客をくぎ付けにしたのだ。
それから3か月後のヴェルディ川崎戦で初ゴール。ふたりのマーカーにまとわり付かれながらもドリブルで運び、先制点を蹴り込んだ。「うれしい。シュートがへただから、すぐにパスを出しちゃうんですが、やっぱりFWはゴールを決めないといけませんね。気持ち良かった」。18歳4カ月25日の得点は、クラブ史上最年少記録である。
デビュー戦から10日後には20歳以下日本代表候補に選ばれ、6月の世界ユース選手権に出場。2大会連続の8強進出に尽力すると、2年後の同選手権にも参加し準優勝という快挙を成し遂げる。生まれた月日が左右するが、GK南雄太とともに世界ユース選手権に2度出場した最初の選手でもある。
1998年8月から10カ月間、ドイツ2部リーグのカールスルーエSCへ期限付き移籍したが、浦和の選手が欧州で武者修行したのも永井が第一号だ。
わずかな期間で多くの“レコード”をつくっていた。
J2に降格した2000年は、チーム随一の12点をマークした上、記憶に刻まれるゴールも多かった。5月の湘南ベルマーレ戦は4人、8月のベガルタ仙台戦は3人を抜いての得点。10月に行われた暫定2位の大分トリニータとの上位決戦では、クビツァの左クロスから2位の座を奪い返す決勝ボレーを蹴り込んだ。
福田正博の背番号9を受け継いだ2003年は、4月に敵地であった韓国代表との国際親善試合で日本代表にデビュー。後半31分に出場すると追加タイムに決勝点を挙げ、ジーコ監督に初勝利をプレゼントした。
鹿島アントラーズとのリーグ最終戦では、J1でキャリアハイの8点目を奪う。0-2の後半31分にゴールを挙げると、追加タイムには大岩剛を抜き去って右から鋭いクロスを配給。エメルソンの同点弾につなげ、鹿島のステージ優勝を阻んだ。
2004年8月の東京V戦で初のハットトリックを完成させた3点目は、チームが積み上げてきたゴールの中でも最高傑作といえるもの。浦和の歴代得点王、福田もエメルソンもワシントンもこういう芸当はできなかった。
東京Vの左CKをGK都築龍太が捕球すると、すぐさま永井へ手で渡した。自陣深くからドリブルを開始し、林健太郎ら襲い掛かる3人をかわして60メートル以上も運ぶ動きは軽業師のよう。ペナルティーエリアに入った瞬間、右足を打ち抜いた。
「あれだけドリブルをしていたら、わがままな選手だと思われるかもしれない。でも僕は昔から味方に預けるのがベターだと判断したら、パスを出してきた。チームの勝利が最優先ですからね。ただあの得点はゴール前まで行けたし、自分で打つのが一番いいと考えたんです」
1995年と96年、チームを再建したホルガー・オジェック監督が2007年に再登板。それまでウインガーやシャドーも任されてきた永井を一貫してFWで使った。恩義を感じ、「監督に結果で返さないといけない」という言葉を何度も口にしたものだ。
8月15日の第20節で、勝ち点4差の首位ガンバ大阪と敵地で対決。負ければ7差、勝てば1差となり、連覇へ向けた正念場の戦いだった。
オジェック監督は試合当日、宿泊先のホテルで「練習を見ていても最近はストレスがたまっているように感じる。今日は先発で使う。ピッチで爆発してほしい」と言って永井の背中を押した。
開幕から10戦連続で先発していたが、11節から9試合続けて控えに回った。そうしてこのG大阪戦で10試合ぶり、田中達也とは初めて2トップを組んで先発する。0-0の後半17分、ロブソン・ポンテの左からのパスを田中がスルー。預かった永井が右足で軽くミートするような一撃を放つと、ゴール右上に決勝点が吸い込まれた。
永井は次節のヴァンフォーレ甲府戦でも前半39分に決勝ゴール。G大阪が横浜FCと引き分けたため、第6節以来4カ月ぶりに首位に返り咲いた。永井の連続得点のおかげだ。
3か月後、日本勢として初優勝が懸かったセパハンとのアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)決勝第2戦。前半22分、ポンテのスルーパスが相手に当たってペナルティーエリアに転がると、永井が強烈な右足シュートを決めて決勝点。「第1戦で2回も決定機を外していたのに先発で使ってくれた。FWの役目を監督に示したかった」と、この試合でもオジェック監督の厚情に応えようという気概が感じ取れる。
ACLで日本人第一号の最優秀選手となり、この優勝で出場権を手にしたクラブ・ワールドカップでは初戦の準々決勝、セパハン戦で前半32分に先制点。日本人初得点をマークする。
2017年7月、ザスパ群馬に在籍していた永井にACLの思い出話を聞いた際、「浦和時代は記憶に残るシーンが多かった」と水を向けた。永井は笑みを浮かべながら「たまたまですよ」と言うと、「誰かのためにやりたいという気持ちは強かったですかね」と答えた。これこそ、記録と記憶に残る魅惑のドリブラーを支えていたものなのだろう。 (記録と名称は当時のもの)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。




















