45年ぶり…日本代表誕生の快挙 劇的ビフォーアフターが示す“W杯優勝”の可能性

平河悠の日本代表デビューに沸いた地元・佐賀県、1980年の副島博志以来2人目
オーストラリア戦で平河悠が日本代表としてデビューした。地元・佐賀県は、45年ぶりの日本代表選手誕生に大いに沸いた。試合には負けたため、報道陣の囲み取材には神妙に応えていた平河だったが、地元の話を聞かれた時だけは笑みを見せた。
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「(出身の)佐賀東高校の監督と少し話しました。あんまり佐賀県から日本代表が出てなかったり、プロ選手の輩出が少ないというのは分かってますので、もう少し自分が佐賀を盛り上げられたらと思っています」
地元にとってどれくらいの快挙だったかというのは、45年前の日本や日本サッカーを取り巻く状況を今と比べてみれば分かりやすいだろう。
45年前の1980年、「ポカリスエット」「ルービックキューブ」「ウォシュレット」などが発売された年の6月9日、副島博志が日本代表のピッチに立った。中国・広州で開催された広州国際サッカー大会、副島は9日の香港戦、11日の中国戦、13日のバカウ戦(ルーマニアのクラブ)、18日の香港戦、20日の広東省戦でプレーした。
5試合のうち3試合が中1日という過酷な日程での試合だったが、バカウや広東省は代表チームではないため、代表歴はつかなかった。それでも3試合、初の佐賀県出身日本代表選手として爪痕を残したのだった。
実はこの広州国際サッカー大会の前に開催された「ジャパンカップキリンワールドサッカー1980」でも副島は日本代表としてプレーしていた。だが、その時の対戦相手はアルヘンチノス・ジュニアーズ(アルゼンチン)、ミドルスブラ(イングランド:現在の表記ではミドルズブラだが当時の資料のまま)、エスパニョール(スペイン)というクラブチーム相手だったため、日本代表の国際Aマッチ出場歴にはカウントされなかった。
その「ジャパンカップキリンワールドサッカー1980」で日本代表を指揮したのはコーチから昇格した渡辺正(まさし)監督(故人)。前任者の下村幸男監督は就任初戦となった1979年3月4日の第7回日韓定期戦で4大会5年ぶりの勝利を収めるなど期待を高めたが、1980年モスクワ五輪アジア予選で敗退し、辞任していた。
下村監督は高年齢化していたチームに木村和司などの若手を入れて平均年齢の引き下げを行おうとしていた。渡辺監督もその流れのまま、当時20歳で守備的MFとしてプレーしていた副島をチームに入れたのだ。

2070年に「45年前って日本はまだW杯優勝したことなかったよね」と語れたら…
渡辺監督は就任5か月で残念ながらくも膜下出血で倒れる。後任をどうするか。当時、指導者として期待を一身に集めていたのは森孝慈(故人)だった。森は1979年、ヨーロッパに留学し当時のヨーロッパの一流監督から指導法を学んでいた。だが渡辺監督が倒れたため帰国。それでもすぐに監督にするのはリスクがあると、矢面とも言うべき日本代表監督に就任したのは川淵三郎で、森はコーチとなる。
川淵監督の初戦は1980年11月9日に福岡で行われたヨハン・クライフを擁するワシントン・ディプロマッツ戦(アメリカ)。九州での試合ということで副島には凱旋試合になるところだったが、試合は0-1で敗れ、副島はクライフターンでかわされてしまう。そしてこの試合もクラブチームとの対戦だったため、代表歴にはカウントされなかった。
当時の日本は他国代表チーム、特に強豪国とのマッチメイクがなかなか組めなかった。1981年に日本代表は34試合戦っているものの、そのうち国際Aマッチは14試合で、残りは選抜チーム、ユースチーム、B代表、クラブチームが相手だった。しかもその頃の交代枠は2人。日本代表として名を刻むチャンスは少なかった。そして副島は1981年1月30日のポーランド選抜戦を最後に出場機会がなくなった。
この時から佐賀県は次の代表選手を待ち続けていた。そして45年後に平河がパリ五輪に選ばれ、佐賀初の海外でプレーする選手になり、そして日本代表になったのだ。
今や日本は五輪に8大会連続で出場し、ワールドカップ(W杯)も7大会連続で出場、8大会目となる2026年大会の出場も確定した。日本代表チームがクラブチームと試合をすることはほぼないし、日本代表選手はほぼ海外でプレーしている。韓国に5年も勝てないということは、最近では考えられないことになった。
佐賀県から2人目の代表選手が出るまでに大きく時代は変わった。だが、1980年に「2025年の日本代表はW杯優勝を狙おうとしているだろう」と話していたら、きっと笑われたことだろう。それくらい日本のサッカー界は変わった。もし45年後、2070年に「45年前って日本はまだW杯で優勝したことなかったんだよね」などと語れるようになっていたら最高だ。
(森雅史 / Masafumi Mori)

森 雅史
もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。