欧州から失意の帰国→34歳でJ2得点王、引退間近で12ゴール 大黒将志が点取り屋として進化できた訳

大黒将志氏がJリーグ復帰後もゴールを量産した背景を明かした【写真:近藤俊哉】
大黒将志氏がJリーグ復帰後もゴールを量産した背景を明かした【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:大黒将志(川崎フロンターレコーチ)第4回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー新連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。日本代表としてドイツW杯に出場した大黒将志だが、点取り屋としての凄みはむしろ、その後の時代にあると言えるだろう。2008年にイタリアから帰国後、8チームを渡り歩きながらゴールを量産。どんな環境にも適応してきた背景には、指導者になった今に通じる気づきがあった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の4回目)

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 欧州で活躍できないままのJリーグ帰還ではあった。日本代表からも呼ばれなくなり、28歳になっていた大黒将志の再浮上を誰が予期したであろうか。

 2008年夏にトリノ(イタリア)から東京ヴェルディに移籍。その年こそ2ゴールにとどまってチームも降格したとはいえ、翌年はJ2を舞台に21ゴールを挙げる。イタリアでサッカーIQを高めてきた成果が、ゴールという形で表れたのだ。

 ガンバ大阪時代は同期の二川孝広や先輩の遠藤保仁から、自分がここだと思ったタイミングで出ていけばボールが勝手にやってきた。日本代表もまた然りである。だが東京Vでは、欲しい時に出てこないという現実に直面した。

 ならば出し手を育てればいいだけのこと。東京V時代は大卒2年目の柴崎晃誠にそのポテンシャルがあると見るや、出すタイミングを徹底的に叩き込んだという。

「まず蹴れるところにボールを置かないとパスなんか出せませんから、ちゃんとそこで止めろ、と。合宿の時に、ボールが出てこなかった場面があったんです。聞いたら『あれはオフサイドです』って言うから、部屋に戻って映像を見せて『これ、オフサイドちゃうやろ』と理解させて。『オフサイドかどうかは俺が一番分かってるから出してほしい』と伝えました。どういうタイミングであればディフェンダーが見失うかっていうのは、もう分かっているんで。そうやって指導者みたいなことを、すでにやっていました」

 こういったシーンを1つ1つすり合わせしながら、柴崎からボールを引き出してゴールを量産していく。育てる楽しみを実感できて、やはり自分は指導者向きだと思えた。

J1でもJ2でも「どこに行っても点を取れるのがいい選手」

 どこに行っても点を取る、さすらいのストライカー。

 2010年シーズン前半はJ2の横浜FCで12ゴール、シーズン後半はJ1に舞台を移してFC東京で7ゴール。そして2011年には横浜F・マリノスでJ1では6年ぶりとなる二桁の10ゴールをマークする。中国1部・杭州緑城からJリーグに再復帰後の2014年シーズン、J2の京都サンガF.C.で26得点を叩き出して34歳にしてJ2得点王となる。

「移籍を繰り返して思ったのは、こっちの動きに合わせてくれって言いまくったとしてもボールが出てくるわけじゃない。出し手の能力もあるから、味方が5秒遅く出すんであれば、それに合わせてこっちも5秒遅らせればいいということに気づきました。別に相手のディフェンスを釣っておけばいいだけの話。いつどこに行っても誰とプレーしても点を取れるのがいい選手だと僕は思うんです」

 合わせろ、じゃなく、自分が合わせる。出し手が誰であろうとも、ボールを引き出す術を会得していた。まさに職人芸であった。

 パスの出し手だけではなく、味方や相手の情報もインプットしている。「5つ先くらいまで読みながら」動いていたという。

「例えば相手の陣内でこっちのスローインだとするじゃないですか。(スローワーから)センターバックが受け取ったらそれをボランチに出して、そのボランチがまた1つ横パス入れて……そのタイミングでオフサイドポジションから一瞬、片足だけオンサイドに戻っておこうとか、全部イメージしてやっていました。

 守備から攻撃に切り替わる時なんかもそう。僕のファーストディフェンスから味方が奪いそうとなったらセンターバックがどこにいて、どこにスペースがあるかを見ておいて、実際に奪った瞬間にアクションを起こす。でもまだ奪えてないのであれば、スペースがあるのを気づいていても、気づいてないふりをする。だからすべてのポジショニングには意味があるんです。僕がオフサイドポジションにいたら、結局は“オン”の瞬間になるとディフェンダーは怖いから、勝手に下がってくる。そうなると僕はオフサイドポジションから戻らなくても勝手にオンサイドになります。そういうのも上手く使いながらやっていましたね。イタリアに行ってから駆け引きの部分は、確実に進化したと思います」

 進化はサッカーIQや駆け引きにとどまらない。イメージがあっても、身体がついてこなかったら相手に対応されるだけだ。一瞬のスピードを高めるべく、瞬発系のトレーニングを大切にした。

「ジョギングはあまりやらなかった。身体を温める目的で5分くらいやれば十分。サッカーに必要なターンのスピードとか、ジャンプとかに反映されませんから。ポジションはフォワードやし、300メートルを何回も走る能力は別に必要ない。15メートルが速い、30メートルが速い、それを連続で動けるかどうか。そっちのほうが大事だと思いますね」

 すべてはゴールを奪うために、最善の準備をしておくというスタンスに立つ。自分の胸にストンと落ちないものはやらない。やりたくないから、ではない。必要なものか、そうでないのかを見極めて責任を持って取捨選択しているだけにすぎない。頭のなかが整理されているから、後輩たちを教えるにしても伝わりやすい。

「頼むでオグリ」木村和司監督の言葉が好きだった

 最後のクラブになったJ2の栃木SCでも、38歳になった2018年シーズンに12ゴールをマークしている。全体練習後に居残りでシュート練習をよく行っていた。自分の練習でありつつ、パスの出し手に対してボールの置きどころ、どちらの足にどのようなパスを出すかの送りどころをレクチャーしていた。

 味方を伸ばして自分を伸ばす――。30代になってからの大黒は、チーム状況に合わせながら自分を溶け込ませていくほうにやり甲斐を感じていたように映る。

 一家言あるストライカーは、何よりもロジックを大切にする。とはいえ、パッションが抜け落ちることはない。

 岡田武史、西野朗、ジーコ、アルベルト・ザッケローニ、城福浩ら多くの監督の下でプレーしてきた。ピッチに送り出される時の指示で一番、心に残っているのが横浜F・マリノス時代の指揮官だった日本代表のレジェンド、木村和司の言葉だったという。

 思わず大黒の口もとが緩む。

「和司さんが言うんですよ。『点取ってきてな。頼むでオグリ』と。その一言で気持ちが入って、僕も『分かりました!』と返して。和司さんが遊び心みたいな意味で使っていた『ちゃぶれ』(遊べ、おちょくれ、翻弄しろなどの意)という言葉は大好きでしたね」

 理論も情熱も、そしていくつになってもサッカーにのめり込んでいく大黒将志がいた――。

(文中敬称略/第5回に続く)

■大黒将志 / Masashi Oguro
1980年5月4日生まれ、大阪府出身。G大阪の下部組織で育ち1999年にトップ昇格を果たす。札幌への期限付き移籍を経て、2004年にG大阪でFWとしてブレイク。翌年にはチームのJ1制覇に貢献した。06年1月からグルノーブル(フランス)、同年8月からトリノ(イタリア)でプレー。08年夏のJリーグ復帰後も得点力の高さを維持し、京都在籍時の14年には26ゴールを奪いJ2得点王に輝いた。日本代表としても活躍し、05年2月のドイツW杯アジア最終予選・北朝鮮戦で決めた決勝点で一躍国民的ヒーローに。21年に現役引退。G大阪アカデミーのストライカーコーチ、FCティアモ枚方ヘッドコーチを経て今季から川崎のコーチに就任した。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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