「45歳まで余裕」も引退決意…元日本代表FW大黒将志が20歳で抱いた夢「監督って面白そうやな」

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:大黒将志(川崎フロンターレコーチ)第1回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー新連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。今回は現役時代に点取り屋としてゴール前で勝負強さを見せ、今季から川崎フロンターレのコーチに就任した大黒将志の姿を追う。40歳で現役を引退し、指導者生活5年目。グラウンド上で見せる振る舞いの背景にある哲学に迫った。(取材・文=二宮寿朗/全5回の1回目)
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瞬間だけ見れば、キレッキレ。とても引退から4年以上経っている人の動きとは思えない。元日本代表、ワールドカップ経験者とはいえ、もう40代半ばである。
ある日の川崎フロンターレ、麻生グラウンド。スタッフジャージを着込んだ大黒将志はデモンストレーションにおいて高速反転からのシュートをゴールネットに突き刺すと、選手たちから拍手が巻き起こった。
「ガンバ大阪のアカデミーでも一緒に汗を流しながら指導していたので、身体もそこそこは動くんです。2か月、ちゃんとトレーニングすれば現役の頃に身体を戻せるとも思いますよ。シュート練習は選手1人で連続になると結構しんどいし、疲労が溜まってくるんで、その合間にコーチの僕がデモも兼ねて半分遊びのようにやっているだけ。ただデモは大事。(動き出しの)タイミング、動きの質、シュートの強さ……いいデモをすると“オオッ”となりますし、説明の説得力も増します(笑)。僕は必ずこぼれ球に詰めるようにしていますけど、選手たちが逆に詰めていないと『最後まで詰めよう』とは言います」
生きた教科書である。どうボールを引き出し、どう受け取り、どうゴールを割るか――。長年培ってきた極上のエッセンスが、デモ1つに凝縮されている。
2005年2月、ドイツW杯アジア最終予選の北朝鮮代表戦において、終了間際に決勝点を挙げたあの「大黒様」。1999年にガンバ大阪からプロキャリアをスタートさせフランス、イタリアを含め12クラブを渡り歩いてきたさすらいのストライカーだ。30代になってからもゴールを量産し、40歳まで現役を続けてきた。
今年、長谷部茂利新監督を迎えたフロンターレのコーチに就任。主にFWを任され、若手にもベテランにも同じ目線で寄り添っている。
「19歳の(神田)奏真にしても、37歳の(小林)悠にしても同じように接したいと思っています。僕が現役の頃、すごく嫌だったのが、年上やからとやたら気を遣われたこと。この世界は実力社会なので、年齢は別に関係ないと思うんです。悠なんて、あと5年くらい余裕でできますよ。もっとガンガン点を獲れるはず。僕としては若手も中堅もベテランも、みんな頑張れるようにやってあげたいと思っています」
大黒はそう言って笑った。
G大阪アカデミーの指導で得た気づきと学び
現役を辞めたらサッカーの指導者になることは、自分のなかで決めていた。
コロナ禍にあった2020年シーズン、栃木SCとは6月で契約解除となり、獲得に手を挙げるクラブがなかったこともあって半年後に引退を表明する形となった。
「45歳までは身体的には余裕でできると思っていました。ただ、その年は降格のないシーズンで(ほかのクラブから)、ゴールの需要がなくなったので、声もかからなかったし、将来的には監督をやりたいから、これはいいタイミングかもと思いました。指導者になりたいって、19、20歳くらいの頃から考えていました。岡田(武史)さん、西野(朗)さん、石﨑(信弘)さん、城福(浩)さん……本当にいろんな監督さんの下でプレーさせてもらって、監督って面白そうやなと思っていました」
引退後は自分が育ったガンバ大阪のアカデミーに戻って、ストライカーコーチを3年間務めた。
「順を追って指導者をやりたいと考えていたので。いきなりトップチームではなく、小学生、中学生、高校生とまず教えさせてもらって、その都度気づきや学びがありました。やっぱり何事も基礎が大事だと思いますし“止める、蹴る”ができていないと、動いてボールをもらっても止められなかったら意味がないんですよね。僕も小学生、中学生の頃に基本技術を身につけさせてもらえて、ユース(高校生)になってから動き方を教えてもらいました。動き出しは高2まではあんまり得意でもなかった」
大黒が高2の時に、ユースの監督に就任した元日本代表・西村昭宏との出会いが大きかった。味方がいいところにボールを置いていないと、いいパスは引き出せない。出し手を見て、自分も動くという作業をコンコンと叩き込まれた。「動き出しのオグリ」のベースがここにある。
大黒の教え子の1人に、坂本一彩(現在はG大阪からベルギー1部ウェステルローに期限付き移籍中)がいる。基本技術がしっかりと備わっているからこそ、動き方を授けるとグングンと伸びていったという。
ストライカーコーチを3年間務め、Jリーグの監督を務めることができる指導者S級ライセンス(現在はJFA Proライセンス)を取得した。「順を追ってやりたい」の次が、アカデミー時代、そしてG大阪のトップチーム時代の同期である二川孝広が監督を務めるJFLのティアモ枚方でのヘッドコーチ就任であった。
「ありがたいことにティアモではやりたいことをやらせてもらえました。フタ(二川)が寛大なので、戦術の部分から練習のオーガナイズ、フィジカルコーチがいなかったのでそういう役割まで。1週間のトレーニングのスケジューリングや、長期的なピリオダイゼーション、映像の編集も自分でやって相手の分析をしたり、自チームの振り返りをしたり。メチャメチャ忙しくて大変でしたけど、すごく学びの多い1年になりました」
ティアモ枚方で気づいた指導者にのめり込む自らの姿
やり甲斐があるから、ここまでのめり込める。盟友の右腕となって支え、クラブ史上最高位の3位でシーズンを終えた。
指導者にどっぷりとはまっている自分に気づいた。チームが強くなっていき、選手も自分も成長できている実感を持つことができた。
「ティアモでやったようなことを、ほかのクラブで将来的にやっていけたらいいなと思っています。今はそのための修行の場でもありますし、シゲさん(長谷部監督)のやり方、振る舞いを学ばせてもらっています。フロンターレが勝つために一生懸命やっていきたい。やり甲斐があるから毎日が本当に楽しいです」
選手は指導者によって成長のきっかけを掴むことができる。
自分のキャリアを振り返ってもいろんな監督、指導者の教えを養分としてきた。何よりそのことを自分が最も理解しているから、のめり込むことができている。特にプロキャリアのターニングポイントとなったのが、あの人との出会いだった――。
(文中敬称略/第2回に続く)
■大黒将志 / Masashi Oguro
1980年5月4日生まれ、大阪府出身。G大阪の下部組織で育ち1999年にトップ昇格を果たす。札幌への期限付き移籍を経て、2004年にG大阪でFWとしてブレイク。翌年にはチームのJ1制覇に貢献した。06年1月からグルノーブル(フランス)、同年8月からトリノ(イタリア)でプレー。08年夏のJリーグ復帰後も得点力の高さを維持し、京都在籍時の14年には26ゴールを奪いJ2得点王に輝いた。日本代表としても活躍し、05年2月のドイツW杯アジア最終予選・北朝鮮戦で決めた決勝点で一躍国民的ヒーローに。21年に現役引退。G大阪アカデミーのストライカーコーチ、FCティアモ枚方ヘッドコーチを経て今季から川崎のコーチに就任した。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。