4度の“クビ”でJ1→JFLへ転落「Jリーガーって言えない」 自問自答の日々…残酷な契約満了通告

長野時代の野崎雅也【写真:本人提供】
長野時代の野崎雅也【写真:本人提供】

J3で3年間プレーした野崎雅也、「クラブとは、プロ選手とは」を考える契機に

 2014年に契約元である浦和レッズと期限付き移籍先のアビスパ福岡の双方から契約満了を告げられた野崎雅也は、トライアウトを経て2015年に当時J3のガイナーレ鳥取へ加入した。1年ごとにクラブが変わりながら3年間をJ3でプレーし、2018年にはJFLのラインメール青森へ。Jリーガーでありながら、純粋なプロと言えるのかどうか。そしてJリーガーでなくなることのリアルも感じながら過ごす日々があった。(取材・文=轡田哲朗/全6回の4回目)

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 鳥取での選手生活は、実質的にはセミプロというものだった。午前中にクラブのスポンサー企業で仕事をして、午後からトレーニングに合流する。それは、浦和や福岡といったJ2までのクラブとは違った大変さがあったという。

「サッカークラブとは何か、プロ選手とは何かと考えさせられる時でした。その時の会社は女性社会というか、女性の従業員の方がほぼ全員で、人間関係が複雑だったんですよ。そういうストレスに晒されながらサッカーをする難しさもありましたし、身体が疲労でついてこない時もあって。精神的にはいけたとしても、身体としてはもう無理だってなる日が出てくるんです」

 それでも、2年前までJ1クラブに在籍していたというプライドもある。そして、浦和という名前の重みと過去に思い描いたものとのギャップを感じながら過ごした。

「周りからは元浦和の選手だって見られて、自分の中では『そんなんじゃないんだけどな、もう』っていう。すごく感受性が豊かになってしまうというか、そういうのに敏感になるんです。浦和にいたと分かった瞬間にこっちを見る目が変わったなっていう、そのスイッチが分かるようになってしまうというか。それは別に、良くも悪くもないです。でも、そんなギャップはありましたよ、ずっと」

 鳥取では本職でないセンターバックとして練習に入ることも多く、結果的に8試合の出場にとどまった。そして、1年での契約満了を告げられることになる。それでも、同じJ3(当時)のY.S.C.C.横浜からオファーが届き、キャリアはつながった。ただし、サッカースクールでのコーチもやりながらという実質的なセミプロ契約なのは変わらなかった。

長野への移籍を決断するも…「プロサッカー選手生活、ずっときつい」

 YS横浜ではリーグ戦28試合に出場するチームの中心選手になった。横浜F・マリノスの監督も務めた樋口靖洋監督の存在も大きく、「かなり信頼してくれてました。真面目なボランチが好きみたいで。自分のチームというか、居場所というか。自分のやりたいようにちゃんとやれるようなチームだったなと思います。レギュラーになれると、選択肢が増えるんです。1つのミスをしたとしても、それで外れるっていう怖さがない。だから、勝負したパスも通しにいけるんです」と、充実の時期を過ごした。

 しかし、野崎は1年で退団して同じJ3のAC長野パルセイロへの移籍を決断する。そこには、「プロ選手とは何か」という現実があった。

「自分が中心メンバーで、2年目で、同じ監督。自分を中心にチームを作ってくれるっていう安心感の中でプレーできるわけじゃないですか。でも、そのタイミングで長野からのオファーがあったんです。長野は資金があって、J2昇格を狙えるクラブだった。もう一度J1にと考えたら、そこで行かないともうチャンスがないとも思ったんです。そして、契約がしっかりプロだった。多少カツカツでも生活ができて、サッカーだけでOKだったんです」

 外から見れば、同じカテゴリーの他クラブから主力を引き抜いた形での長野への移籍だったが、野崎はそこでポジション争いに勝てず、リーグ戦の出場機会を得ることはできなかった。
 
「きつかったですね。長野ってスタジアム綺麗なんですよ。だから綺麗なグラウンドをいつも上から見る。埼玉スタジアムでずっとスタンドからだったのがコンパクトになったような感じで。プロサッカー選手生活、ずっときついっすね、そう考えると。キラキラした舞台を外から見てる自分が、練習だとそんなに差を感じてないってところもきつかった」

 結果的に、長野とは1年で契約満了となった。浦和と福岡のケースを別にすれば、これが4度目の契約満了の通知だった。繰り返されるその通知に対して、次第に感覚が麻痺していく自分もいたという。それでもトライアウトに臨むと、JFLのラインメール青森からオファーが届いた。

トライアウトに参加した当時の様子【写真:本人提供】
トライアウトに参加した当時の様子【写真:本人提供】

J1→JFLのすべてを経験「本当は逆の順番がいいよなって思いながら」

 J3とJFLの間にある違いについて、野崎はこう語る。

「それは違うんじゃないですかね、やっぱり。Jリーガーって言えなくなるわけですし。J1、J2、J3と全部いたので、本当は逆の順番がいいよなって思いながら。こうなったら全部見るかっていう気持ちも半分あったと思います。でも、Jリーガーじゃなくなるのは確かにきつかった」

 そして、現実とも向き合うことになった。小学生の頃、両親に買ってもらっていたスパイクは、中学で浦和のジュニアユースに進んでからは、クラブのパートナー企業だったナイキ社から提供されるようになった。ユースを経てトップ昇格したことから「そのご縁もあって続けていただけた部分もあったけど、そこで打ち切りなわけですよ。そういうところで、Jリーガーとの違いも感じるんだなと思いました」と振り返る。そして25歳にして初めて自分で稼いだお金でスパイクを買った野崎は、ちょっとした悔しさも抱きながら他のメーカーのものを選んだ。

 青森では主力としてプレーしたものの、J3昇格を逃したクラブは戦力の大幅な入れ替えを決断し、野崎も契約満了となった。この時点で、精神的にはプロサッカー選手という存在から離れたという。

「青森で終わって、2週間くらいでスペインに行こうって思ったんです。グアルディオラのバルサが俺の原点だったし、サッカーが好きになったのが、あのチームだったので」

 そう語るように、野崎は旅立ちを決断した。新型コロナウイルスの影響で、すぐに実現とはいかなかったが、そのなかで改めてサッカーの奥深さを感じる時間もあったという。

(轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada)



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