選手人生を変えたレンタル先での“事件” 「標的に俺が」…監督の評価を急落させたミーティング

浦和から福岡へレンタル中の野崎雅也に起きた事件とは?
2012年に浦和レッズユースからトップ昇格した野崎雅也は、分厚い選手層とチームを率いるミハイロ・ペトロヴィッチ監督の難易度の高いトレーニングに苦しむ日々を送った。13年には負傷を抱えて出場した天皇杯のゲームで失点に絡んで後悔もした。そして翌年、浦和との3年契約最終年に向け、出場機会を求めて当時J2のアビスパ福岡へ期限付き移籍。そこでは、キャリアを大きく左右する一瞬が待っていた。(取材・文=轡田哲朗/全6回の3回目)
【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!
◇ ◇ ◇
「浦和で試合に出ればJリーガーの中でもトップグラスの選手だと思うし、そこでもう1年勝負するって選択肢も今だったら取るかもしれないですけど、当時の自分としては試合に出たいって思ったのが大きかった。当時の代理人がアビスパの話を持ってきてくれたので、『行きます』って言いました」
当時の福岡を率いていたのは、スロベニア人のマリヤン・プシュニク監督だった。野崎は「入った当初は、かなり気に入られてたんです。キャンプの前、立ち上げから最初の方で、かなり気に入ってくれていて。1人だけ残されて怒られることもあったんですけど、すごく愛のある怒られ方だったなって感じながら」過ごしていたのだという。
しかし、ここで事件が起こった。ある日のトレーニング前のことだった。
「ミーティングの時に確か監督が、なんかミスをしたんですよね。映像かメニューか何かが、こう、噛み合わなかったかなんかで。それで、選手たちが『ははは』って何人か笑って。その中で俺もクスクスはしてたんですけど、そんな別にバカにしてやろうみたいな感じは全くなく。でもその時にパッて目が合って、すごい目をしてたんですよね。多分、そのクスクスが彼の中でかなり嫌だったのかなと。
で、その標的に俺がなってしまったところがあって。そこからその1つでバチって変わって、そこからどんなプレーをしようが、いいプレーをしようが、もう試合には出ない方に入ってしまった。その前後で、もうそこが境って分かるぐらい。多分あの目、一生忘れないんです。あの目で多分バチっと変わったと思いながら。今でも思い出す映像ですね、それは」
21歳で感じた人生の怖さ
野崎の話に沿えば、何らかの形で笑うようなリアクションを取ったのは彼だけではなく、むしろチームの大多数だった。チーム内での立場、キャリアにおける重要な分岐点だったと認識できる瞬間があり、1か月、2か月と経つなかで、例えば座る席が違っていたらどうだったのか、なぜ自分と目が合ったのかと考える瞬間があっただろうか。
野崎に問いかけると「思いますね。今でも思います、うん」と、口を開く。
「その時は多分、監督としてもかなり信頼してくれたりとか期待をしてくれたりしてたからこそ、目についてしまったのかなというのも今思うとあるんです。『そんなやつが、なんで笑ってんだよ』みたいなのはあったのかもしれない。もしかしたら、全然違う人生になっているんだろうなって思います」
それから10年以上が経ち、「今の世界線の自分が好きですけどね」と笑顔も浮かべられるようになった野崎は、そこから監督との関係を修復できなかったことへの思いも語った。
「地獄でしたね。自分の中では何でそうなったかはちょっと分かってるなかで、でも、監督に直接『あれが原因ですよね』とは言えなかったなっていうのは覚えてます。もしコミュニケーションを取ったら、何かがもしかしたらいい方向にいったかもしれないけど、でも、あの目はもう変わらなかったなと思います。怖いですよね」
こうやって、野崎は完全な構想外の扱いを受けた。出場機会を求めて福岡へ行ったはずが、出場は天皇杯の1試合のみ。そして、シーズンを終えると期限付き移籍期間とともに浦和とも契約満了になった。それを告げられた瞬間、心が寒くなるような思いはあったという。
あの1日がなければ。そんな人生の怖さを21歳の野崎は体感した。そんな福岡での1年でも、練習でのパフォーマンスには手応えが得られていたのは救いだった。シーズン終了後、チャンスを求めてトライアウトに臨むことを決めた。
「俺はやれてるぞっていう自負というか、反骨心というかがあった年だったので『いやいや、辞めるなんてありえないし』って。例えばその反骨心が1年でなくなって、『これはもう試合に出られても通用しないな』となってたら辞めてたと思いますけどね。若気の至りじゃないですけど、変な根拠のない自信を持ってた部分もありました」
その結果、当時J3のガイナーレ鳥取から練習参加の話が舞い込んだ。そして、チームのスポンサー企業で仕事もしながらだが、サッカー選手としてのキャリアがつながった。それでも、チームを転々とする中でどこかに上を目指す限界は感じながら歳を重ねる。そこでは、プロサッカー選手とは何かというものを考えさせられたという。
(轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada)