浦和トップ昇格も「俺ここにいていいの?」 代表級ずらり…18歳で感じた”恥ずかしさ”

2012年に浦和にトップ昇格した野崎雅也
毎シーズン、Jリーグの下部組織からは次々に夢と希望を持って選手が昇格してくる。子供のころからサッカーが上手で、プロとしての活躍や海外でのプレー、あるいは日本代表としてワールドカップ(W杯)に出場することなど目標はさまざまだ。しかし、絵に描いたようなキャリアを歩めるのはほんの一部であり、必ずしも長くプロサッカー選手としての生活を続けられるわけではない。2012年に浦和レッズユースからトップ昇格した野崎雅也もまた、そんな悩めるキャリアを過ごした1人だった。(取材・文=轡田哲朗/全6回の1回目)
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埼玉県所沢市に生まれた野崎は、3歳年上で将来的にザスパクサツ群馬(当時)などでプレーした野崎桂太を兄に持つ。「ずっと兄貴がサッカーをやっていて、それについていく感じで」サッカーを始めた。いわゆる小学校の校庭で週末に活動しているような一般的な少年団チームだったが、「高学年になるときに、お父さんの職場にいた人が八千代高校出身で結構がっつりやっていた人だったので、ちょっとコーチしてくれよっていうので来てくれたのがかなり転機だった」という。そこでかなり厳しく育てられたことで、「走れるとか、そういう気持ちは自信がついたし、例えばジュニアユースに入った時も、その走り系の種目だったら負けない」というほど、その後の基盤ができたという。そして、中学からは浦和の下部組織に進むことになった。
その当時、浦和だけでなく大宮アルディージャやFC東京からの誘いもあったと話す。それでも、地元の中学に通いながら練習に参加しやすいことが浦和に決めた理由だった。中学では「帰宅部のエースをしながら」浦和に通ったと笑う野崎だが、当然のように体育の授業なんかでは明らかに飛び抜けたものを見せる。そのような面もあり「今思い返すと、浮いているのはありましたね」と話す。今では珍しくなくなったのかもしれないが、当時の部活ではなくクラブチームでサッカーをする中学生には”あるある”だったのかもしれない。
野崎は浦和ユースへの昇格を果たし、高校は浦和のトップチームが練習する大原サッカー場に近い浦和西高校へ進んだ。そこでは「高校の時はサッカー部とも仲良かったですし、『いつ来てもいいぜ』みたいな。たまに身体を動かしたい時もありましたし、先生も今でも良くしてくれますからね」と、学校生活とユースでの練習は良いサイクルにあった。そして、小学校時代の埼玉県トレセンから浦和ジュニアユースでも同学年で切磋琢磨してきたMF矢島慎也(現清水エスパルス)と2人でトップチーム昇格への切符を勝ち取った。
当時から矢島は世代別の日本代表に選出される存在で、野崎はそこに手が届かなかった。「(矢島が)常に先にいる感じはあったかなと思いますね。でもそこら辺は、俺は俺だしっていうところと、マイペースなところとあったのかなとは思います。ただ、どうしてもやっぱ比べられることはありましたね」という関係だったが、今でも連絡を取り合うほど仲の良い盟友だ。
トップ昇格でも立ちはだかった壁
ただし、そのトップ昇格はそのまま茨の道が始まることを意味した。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の就任初年度でもあった2012年、野崎が主戦場とするボランチは鈴木啓太と阿部勇樹の日本代表クラスの2人が不動の存在であり、柏木陽介が回ってくることもあった。1歳年上でプラチナ世代のホープと期待された小島秀仁にさえ出場機会がほぼゼロという環境に、18歳でプロ入りする難しさに直面した。
「僕自身の感覚というか当時の感情は、なんて言うんですかね、やっぱり少し恥ずかしさにも似たところがあったなって。なんかこう、場違い感というか。『あれ、俺ここにいていいの?』みたいな葛藤と、自分の中で『いやいや、やれるっしょ』っていうところと。その間をずっと行き来するなかで、恥ずかしいなって思うところのゲージがちょっと多いというか、バランスはそっちが多いような感じでした」
なかでも「阿部さんは衝撃でした。あのふくらはぎの太さから何から(笑)。ゲームとかで(能力の)五角形とかあるじゃないですか。あれが全部でかいっていう。どこかだけ飛び抜けてるとか、へこんでるとかがない。積み重ねて基礎をしっかり作ってる最上級みたいな、応用とかじゃない、もう基礎で差をつけるっていう感じの一番勝てないタイプの人だったんだろうなっていうのは今思いますね」と、イングランドから帰国してチームに加入したキャプテンに差を痛感させられた。
そして、ミシャの愛称で知られる名将のトレーニングは、かなり難易度の高いものだ。ハーフコートで11対11のゲーム形式をやる際に、リターンパス禁止でパスは全てワンタッチという制限が掛かることもあるほどだ。
「とんでもないですよね、今考えると。ミシャさんのサッカーは、練習からかなりプロ仕様というか、上手い人たちがやったらそのままポンとできるけど、発展途上の選手たちをどう引き上げていくかっていうところ、どう学んでいくかっていうところにはあまりフォーカスされていなくて。上手い人たちがどんどん上手くなるとか、やりやすいサッカーではあったのかな。でも若手、1年目とかで、まだまだ技術もフィジカルも足りてないっていう人たちにとっては、厳しさも難しさもあったと思います」
プロ1年目のシーズンは公式戦の出場ゼロだった。それでも、翌年にようやくチャンスが訪れる。しかし試合への出場をめぐり、プロの厳しさをあらためて感じることになる。
(轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada)